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手に嫌な汗を滲ませながら向かった事務所――と倉庫を合体させた決して広いとは言えない空間で、院長の多々良があごに手を当てながら、予約表のバインダーを眺めていた。
「失礼します。多々良先生、何かありましたか?」
「ああ、急にごめんね美澄くん」
年季のこもったオフィスチェアに腰掛ける多々良の背後に立ち、本題であろうバインダーを覗き込む。
美澄の欄の明日夜八時に、赤ペンで丸がついていた。
「明日の夜、美澄くんにご指名があって。受けちゃったんだけど大丈夫?」
「大丈夫です。でも珍しいですね。多々良先生指名なら分かるんですが。女性です?」
「いや、男だよ。しかも初診」
「わ、本当に珍しい……」
多々良は腕利きの柔道整復師として、度々雑誌にも取り上げられる優秀な人だ。そんな彼ではなく、まだまだひよっこの美澄を指名してくるなんて。美澄の整った顔面狙いの常連マダムなら、まだ分かるのだが。
「ちなみに名前は、間宮要さん」
「……え?」
その名前を聞いた刹那、美澄は呼吸の仕方を忘れた。にわかには信じられず、思わず真顔で聞き返す。
「間宮要さん。同姓同名の可能性もあるけれど、あの東京スワンズの間宮選手だったりして」
さすがに違うかぁ、とお茶目に笑った多々良に、美澄は真剣な面持ちを崩さなかった。
「いや、多分その間宮要だと思います……あの人、高校の先輩なので。電話、どんな感じの人でした?」
「明るくて、こう、あはは~って感じの声だった」
「間違いなく先輩ですね……」
その感じは、美澄の知っている先輩捕手に違いない。
「でも、どうして……」
美澄より一つ年上の要が卒業してから今日まで、彼とは一度も連絡を取っていなかった。だって、嫌われてしまったはずなのだ。美澄が野球から目を背け、逃げたから。それを今さら、どうして。
不安が湧き水のように込み上げてきて、頭のてっぺんから足のつま先まで覆い尽くしてしまう。治療を受けに来るというのはただの口実で、本当は嫌いな後輩をボコりにくるのかもしれない。
多々良先生ごめんなさい。明後日から来られないかも――「おーい、美澄くん?」
「っ、ああ、すみません」
「都合が悪かったら今からでも断るけど……」
「いえ……大丈夫です」
それでも、断る選択肢はなかった。わざわざ正規の手続きを踏んで予約してきたのだ。こちらも誠意を持って迎えなければ。
「現役のプロ選手だ。騒ぎになっても困るだろうし、奥の個室を使おうか」
「そうですね。施術内容は、明日状態を確認してからにします」
「電気治療機器を使う場合は、診療時間が終わってからにしよう。表は僕と吉村くんで回すから、七時半くらいから準備に入ってもらって」
「分かりました」
話がまとまって満足したのか、意気揚々と事務所を出ていく小さな背中を見送った後、デスクの上の予約表に書かれた名前をそっと指でなぞってみた。
間宮要。六年前の夏、青春の全てを共にした人の名前の隣には、多々良の几帳面な文字で「背中の張り」と書き加えられていた。
きっとプロの世界は、美澄には想像も出来ないような重圧の連続なのだろう。だって、主将で四番で扇の要だった高校時代の彼は、怪我のひとつもしたことがなかった。
「……要先輩」
たとえ嫌われていたとしても、忘れられていたとしても、久しぶりに会えるのを喜んでいる自分がいる。憧れと不安が入り交じって、胸が苦しい。
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