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顔を合わせた瞬間から、嫌悪感は微塵も伝わってこなかった。キャッチャーというポジション柄、高校の頃から心理戦が上手い人だったから、負の感情を全て内側に隠している可能性も無くはないけれど。
――俺のこと、嫌いになったんじゃないんですか。
逞しい背中に問いかけたくなる。そうだよって言われたら、二度と立ち直れなくなるくせに。
「要先輩、一度起き上がって、ゆっくり立ち上がってみてください」
「んー……おお、背中が軽い。すげー」
見上げた先で、要が相好を崩した。ゆらゆらと楽しげに揺れる身体を両手で制し、直立させる。一歩離れて見ると、真っ直ぐ立っているはずの身体がほんの少しだけ右に傾いていた。
「……疲れで重心がズレてるかもしれないです。投げたり、バット振るのに支障はないんですよね?」
「とりあえずは。試合観た? 俺、一昨日ホームラン打ったんだぜ?」
「いや、観てないですが……とりあえず、背中の筋肉を伸ばすストレッチのやり方を教えるので、毎日寝る前にでもやってみてください」
一人でも出来る簡単なストレッチを教え、昨日の打ち合わせ通りに診療時間が終わってから電気治療を施した。
プロ野球選手の突然の来院に、多々良も吉村もぽかんと口を開けて驚いていたが、当の本人は全く気にする様子もなく、吉村がちゃっかり用意していた色紙に快くサインなんかして帰っていった。
片付けまで全て終えて帰路につく頃には、まるで嵐が去っていったような静けさと、一試合を一人で投げ抜いた後と変わらないくらいの疲労感が肩に重くのしかかっていた。でも、美澄は無傷だ。お礼参りみたいに、憎き後輩をボコボコにしにきたわけではなかったらしい。
高校三年の春、美澄は左肘の手術をした。切れてしまった靭帯は無事に繋がり、主治医曰く「再び投げられる状態」にまで回復したはずだったが、もう一度マウンドに立つことは叶わなかった。
プロで待ってる。尊敬してやまない人がそう言ってくれたのに、美澄は約束を守れなかった。失意に塗れた入院中、チームメイトや卒業した先輩から届いたたくさんのメッセージに元気をもらった。「焦るな」「みんな待ってるから」「大丈夫」――その中に、要の名前はなかった。
きっと要はプロへの道を諦めた美澄に失望し、怒っていたのだ。そんな結論に至った時の絶望感は、今思い出しても涙が出そうなくらい苦しい。
高校生が生きる狭い世界の中で、最も尊敬する人に嫌われるのは、魂を削られるような痛みをともなう。月日を重ね、もっと広い世界を知り、ようやくまともに呼吸ができるようになったと思ったのに。要は、再び美澄の前に現れた。
日が落ちても暑さが引かなくなってきた七月下旬。通勤に使用しているシティサイクルは、心地良い風で頬を冷やしてくれる。少しだけ遠回りして帰ろう。
いつもは右折する交差点を、今日だけは真っ直ぐ進んだ。もう少し、感情を整理する時間がほしい。
再会できて嬉しかったのか、それとも苦しかったのか。自分自身に問いかけてみても、答えは出なかった。
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