あの頃の君

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あの頃の君

 中2の春、美術部の僕は、毎年秋に行われる学校祭で展示する作品を描くために、校内をあちこち回りながらスケッチしていた。いわゆる素材集めってヤツで……砂埃の中を懸命に走る陸上部員とか、体育館の外の水飲み場とか、中庭の花壇で揺れるチューリップの群れとか、人でも物でも色々描いた。  ――クールルルルルー、ルッ、ピバッ! 「あーっ! もぉっ!」  低音から高音へ。段を滑らかに駆け上がっていたけれど、一旦アヤシく躓くと、最後は調子っ外れな高音が弾けた。続けて聞こえた女の子の苛立った声。この楽器の演奏者だろう。  僕がそこに居合わせたのは、中等部の校舎の北端で大きく枝を広げる楡の古木を描いていたからだ。瑞々しい若葉の間を抜ける木漏れ日がキラキラ光って、単純に美しい。この爽やかな生命力を、どんな色で表現しようか……なんて考えながら鉛筆を走らせていたら、件の音が流れてきたのだ。  校舎の角を曲がれば非常階段がある。恐らくは、その辺りで練習しているのだろう。  ――クールルルー、ルルルッ、ピッ!  ――クールルルルッルー、ルルッ  ――クールルルルルー、ルッ、ルー  なかなか上手く吹けないらしく、女の子は独り言を交えながら、それでも練習を続けていた。同じ旋律を、繰り返し繰り返し。  僕は、足の骨折で入院していた小3のときの自分を思い出した。病室で、退屈しのぎにお見舞にもらったリンゴをスケッチした。看護師さんに褒められて得意になった僕は、角度を変えながら繰り返し繰り返しリンゴばかりを描いていたっけ。反復練習は裏切らない。デッサン力も演奏力も分野は違っても、きっと同じはず。  気が付くと、楡の葉影が濃くなっている。そろそろ部室に戻らなくては。スケッチブックを閉じて、うーんと背伸びする。  ――クールルルルルー、ルルッ  練習はまだ続いている。帰りかけて、ふと踵を返した。どんな子が演奏しているのか、単純に興味が沸いたのだ。足音を殺して、そーっと校舎の壁伝いに進み、角からこっそり覗いてみる。  ――クールルルルルー、ル、ルッ  非常階段の1階と2階の間の踊り場に、細長い楽器を咥えている女の子がいる。夏服の半袖シャツに、中等部の茶色いリボンタイがチラリと見えた。  ――クールルルルルー、ルルッ  ――クールルルルル、ルルッ  ――クールルルルルルルッ 「……あっ」 「でっ……出来た? やったあっ!」  躓かず、滑らかに音が駆け上がる。自分でも驚いたのか、彼女はその場で両手を突き上げた。柔らかなポニーテールがふわっと揺れる。 「よーし、もう一回っ!」  横顔がキラキラ輝く。顔立ちはハッキリ見えなかったけれど、薄く色付いた頰にドキリとした。  ――クールルルルルー、ルルッ  ――クールルルル、ルルー、ルッ  ――クールルルー、ルルルッ、ピッ! 「あれっ? なんで? おっかしいなぁ」  その後も5分近く聴いていたけれど、躓かなかったのは、さっきの一度切りだけだった。  翌日、僕は部活の時間になるとスケッチブックを抱えて楡の木に直行した。音階(スケール)の練習は既に始まっていた。やっぱり躓き、躓き……それでも挫けずに吹き続ける彼女の音は、なぜか僕に元気をくれた。僕のスケッチブックは楡の木で埋まっていき、1冊描き終えた頃には、まだ名前も知らない彼女の存在が僕の中で“特別”になっていた。
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