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「ママ起きてよ」
四歳児の容赦ない揺さぶりにマユミは半身を起こして目を擦る。「ごめんね、おはよう」ちらりと時計を確認するとそれはまだ五時をさしていた。
「はやいねぇ、イクト」母親が起きて嬉しいのかイクトはぴょんぴょんと飛び跳ねながらほこりをたてる。「遊ぼう!ママ鬼ね!」そのまま寝室を飛び出した四歳児をマユミは四つん這いの体制でずるずると追った。「まてぇ」その姿にイクトはキャハハと高い声で笑う。
後ろからトウマの泣き声が響いてマユミはハッとする。「起きちゃうよね、おはよう、よしよし」寝室に戻り、一歳半になったトウマを抱き上げるとよいしょと立ち上がった。
「パン食べていい?」いつの間にか、テーブルの上に置きっぱなしの菓子パンをイクトは片手にかかえてマユミの前に立っていた。
「うん…いいよ、ほら開けてあげる」拒否したら泣くだろうことを予想するだけでマユミは目眩がした。もぐもぐと歩きながらパンを食べるイクトをみて、トウマが「パァン」と言う。
「だよね、そうなるよね」マユミがため息をついて立ち上がると、トウマがわあっと火がついたように泣き叫ぶ。「ちがうちがう、ほら、とーくんの分もあるよ、はい」マユミは急ぐ手先でパンをあけるとトウマに手渡した。
パンを手に入れて大人しくなった二人を放置し、マユミは洗面所に向かう。洗濯機をまわしながら歯磨きをして冷たい水で顔を洗う、そのままそそくさと台所へまわると朝食の支度をする。
朝、洗面所で自分の顔を見ないことは、もはやマユミにとって当たり前のことになっていた。
子供達ふたりが小さな菓子パンを食べきってしまう前におかずをつくり、夫が持っていくおにぎりを用意する。幼稚園の支度をして子二人分の着替えを済ませれば、洗濯機がないて洗濯物を干す。
夫は家を出る五分前に飛び起きる様な人間なので、下手に触らない。
「じゃ、そろそろ行くよ」下のズボンだけをジーパンに履き替えたマユミが焦った声を出すのもいつものこと。「マァマ、トウマが叩いた!」イクトがトウマを指さしている。「痛かったね、飛んでけしよう、痛いの痛いの…」「マァマー!」イクトの後ろでトウマが泣き叫んでいる。
「うん…とーくんもね…とーくんも…」
マユミの呼吸がハッハッと短くなる。「パ…パパ…ま、まさくん…っ」マユミが近くにあった立てかけの掃除機を力いっぱい床に倒すと、その物音で寝ていたマサユキが虚ろに目を開いた。顔をこすり、むくりと起き上がると苦しそうなマユミの様子に気がついて小さく「やばい」と声を出した。
「えっと、袋、袋ね、やばい」マサユキはいつも台所においてある紙袋を手に取るとマユミの口元にあてた。「ママ、だいじょうぶ?」イクトが両親の周りをとことこと歩き、トウマはまだわぁっと泣いていた。ぼんやりとした頭で手の先の痺れをマユミは感じていた。「だいじょぶ」マユミがなんとか声を発すると、マサユキはちらと時計を見てマユミの顔を覗き込んだ。
「落ち着いた?俺仕事行かなきゃやばい!ごめん、イクト、トウマいい子にしなきゃママ死んじゃうからね!」そう言うと忙しなく作業着に着替え、マユミの背中をひとなですると音を立てて玄関を出ていってしまった。「パパ…さっきまで寝てたくせにね…」マユミの呟きは誰の耳にも届かなかったようで、独り言となる。
「ごめんね…幼稚園、遅刻だ」
三ヶ月ほど前だった。イクトの読んでいる本をトウマが踏んだ、いつものように小さな喧嘩が起こり、トウマが火がついたように泣いていた。「どうしたん、仲良くしなきゃ…」マユミは、食べてくれるかわからないじゃがいもとアスパラガスを蒸している途中だった。火を止めて、一歩足を踏み出した途端、息がつまり、倒れ込んだ。医者にパニック障害だと言われた。
「ママ今日おふろあついよ!」文句ではない言葉を四歳児は使う。「え、そう?冷たくしたい?」
「つめたくしない」イクトは小さな象の形をしたジョウロで雨をふらせている。「ママ…」トウマはコップからコップへ、お湯を移し替えることに真剣なようで、一分ごとに「ママ…」と呟いている。
「サメだ!サメェ!」イクトが笑いながら湯船を覗き込んで叫び、それにつられてトウマも「サメェ!」と笑った。
「サメ、いた…?」マユミはぼんやりとする頭でほとんどオウム返しの会話を繰り返しながら口元まで湯につかった。「あめがふりまーす!とーくんはかさありませーん!」耳に湯がゆっくりと入ってくる感覚があり、二人の声がゆれていくのをマユミは感じていた。
狭い湯船、足をぐっと掴んでいる自身の腕や手が揺らめいていて、マユミは海に見えるなと思った。二人の行動に注意しながら口元にかかる波を受けていると小さなクラゲが組んだ足の隙間から顔を出してぷかぷかと泳いだ。
「クラゲだ」マユミが顔をあげて湯船を覗き込むと、イクトとトウマも同じようにクラゲを探した。
「わあ!クラゲだ!逃げろー!」「けろぉ!」「つかまえろー!」イクトが素早く湯船に手を入れて嬉しそうに笑っている。「逃げられた!」
「ママ、つかまえたよ」マユミが手をお椀のようにして湯からあげると、覗き込んだ二人がくすぐったそうに笑い、マユミはそれをもう一度湯船の中に投げた。「あー、逃がしちゃった、ママもう一回探そう」マユミの言葉をイクトがきゃー!と笑い、お湯を何度も叩く。トウマは飽きてしまったのか蛇口についた水滴を真剣に指でつかまえていた。
「それでは聞いてください、海月」
マユミは初めて聞いたバンドの三人組を重たい瞼をこすり、じいっと見た。「久しぶりにテレビ見たや、わたし」マユミの言葉にマサユキは興味なさげに「ああ」と返すとテレビの中で歌う三人組を指さした。「こいつら最近よくでてんくんだよね、俺の好きなアニメの主題歌してて…なんかでもどの曲も同じに聞こえるし、なんかなぁ、何ていうか見た目的にも無理なんだよなぁ」
「あぁ、まさくんってもっといぇーいみたいな感じの人たち、好きだよね…」
互いの言葉はキャッチボールとなることはなく、ただ部屋に染み込んでいく。
僕のあしもとでクラゲがおよいだ …
差し込んだ光にしか映らない …
曲の盛り上がりで、マサユキはたちあがると煙草を手にして換気扇の下にある椅子に座ってスマートフォンをいじった。寝室からトウマの泣き声が聞こえてきて、マユミはさっと立ち上がると「おやすみ!」と小声で呟きテレビを消した。
久しぶりに見たテレビのせいか、それどころかマユミは音楽に触れることさえ久しぶりだったせいなのか、三人組のボーカルが気持ちよく歌う「クラゲ」がぐるぐるとマユミの脳内で泳いで消えなかった。
「推しがいるっていいね」マユミは久しぶりの友人にLINEでそう送った。
「何?誰?ていうかパニック障害よくなったん?」
「てかめっちゃ久しぶり!」
すぐに既読になり返信がきたその相手は、マユミが独身のころよくあそんでいた親友のカナだった。子供が産まれてさっぱりと関わりが減り、今では親友と呼んでいいのかも分からないほどだったが、このようにどうでもいい話題を突然送り付けられる相手はやはりカナしかいなかった。
「パニック障害よくならないよー」「推しっていうか…notnormalのボーカルのアオって人」「知らないよね」マユミは文字を打ち込みながら左上の時間を気にしていた。トウマの夜泣きとイクトの早起きでまた寝不足になってしまう。
「知らんわ」「てかマユが推しって初じゃん」「推し活しよ」ぽこぽことメッセージが返ってきて、最後に最近流行りの猫のスタンプが送られてくる。
「海月って曲聴いてから風呂に海月があらわれる」
「意味わからん」「海月ってクラゲか」カナの返信通り、マユミ自身もおかしなことを送ったとおもいながら口の中で笑った。
「この曲ある限り毎日がんばれる…」尊い!とかかれた犬が泣くスタンプをつづけて送ると、カナからは大笑いするネコのスタンプが返ってきた。
「うううん」トウマの唸り声にマユミはスマートフォンを枕の下に滑り込ませるとトウマを抱き寄せた。早く対応しないと、イクトが起きてしまう…そんな思いが膨らんで、何度か二人が起きてしまってほとんど眠れなかった夜が脳内で再生される。
「はぁはぁ…」息が苦しくなり、マユミはトウマの背中を叩きながら目を強くつぶった。こんな時は脳内で泣き叫ぶ二人の声に雲をかぶせ、脳内を真っ暗にする。気がつくとトウマは腕の中で寝息をたてていて、マユミは這いずるように寝室をでて風呂場に向かった。
張ったままの湯はすっかり水になっている。薄暗い水に手を入れると小さな波がたって海月が湧いた。円を描いていた小さな海月が集まってひとつになると揺れのとまった湯船のなかでただじっとしていて、マユミもどのくらいか、その海月を見つめていた。
狭い水槽でもいいといった…
どこにいても君は海月だった…
あの曲が脳内で終わる頃、マユミは立ち上がると夫の寝室をそっと覗き込んだ。子らを寝かしつけている間に帰ってきたであろうマサユキは気持ちよさそうに眠っている。耳に着けたままのイヤフォンとアニメがうつったスマートフォンの画面、そして頭元に散乱したティッシュのゴミがマユミを苛立たせた。トウマが産まれた頃から、マサユキは浮気をしていた。
寝室に戻ると、イクトもトウマも静かに寝息を立てていた。マユミは目を閉じて頭で「海月」を歌う。テレビで歌うアオを見てから、それがマユミの密かな楽しみで、小さな幸せだった。寝不足を避けるためスマートフォンをいじりたい衝動をぐっと抑えてひたすら脳内で音楽とアオの声を再生させる。
「風呂にいた海月は、アオさんだ」実際に声は出さないが、マユミはそう言った。「アオさんが歌っている限り、私はがんばる」そのまますっと気持ちの良い眠気がマユミを攫った。
「やばい遅刻する、そろそろ行くよ!」マユミは幼稚園の荷物をかかえて玄関をあけた。「ママァ、今日もお風呂にクラゲ、でる?」「ん?あ、クラゲね!でるよぉ、ふわふわーって!」話しながらイクトに靴を履かせ、トウマを抱き抱えて車に乗り込む。「クラゲつかまえっこする!?」「するする!」エンジンをかけるとスマートフォンの着信がなる。
「わ、ごめんイクト赤いマル、おして」マユミに言われた通りにイクトがするとスピーカーから明るい声が響いた。
「あ、マユミちゃん?おはよう!今、大丈夫?」「お義母さん、大丈夫だよ」マユミは心中深呼吸をした。「昨日実は東京まできてて、今からそっち遊びに行ってもいい?ていうか向かってるのよ。」
義母であるアイコも運転中なのだろう、ナビの声が後ろから聞こえる。
「ああ、イクトは幼稚園なんですけど…トウマはいるし、全然、いいよ、待ってるね」マユミはできるだけ楽しそうにそう返すと、通話を切り、すぐ目の前にあるコンビニに車をとめた。
「ごめ…今日も遅刻しそう…ちょっと休憩…」常に持ち歩いている紙袋で深く呼吸を整える。
「だいじょぶだよ」慣れた様子でイクトはスマートフォンをマユミから奪い、音楽を流す。マユミの呼吸は早いこと収まり、幼稚園には遅刻せずに済んだ。
「え?パニック障害!?」久しぶりにあったアイコは大袈裟に驚くと「かわいそぉ」と続けた。
「じゃあさ、今日このままトウマとドライブしてくるよ、イクトも迎えに行ってさ、遊んできてあげる、ていうか東京の姉の家に三日くらい泊まってくるよ!幼稚園は休むように伝えておけばいいでしょ?」にこにこと人の良さそうにアイコは笑った。
「ええ、でも…」「だいじょうぶよぉ」
有難く思うべきだ、と脳内の誰かがマユミに話しかける。
スマートフォンばっかり見せて、自分の好きなものばっかり押し付けて、自分そっくりに仕立てあげようとしてきても?
マユミはぐっと唇を噛んで床に落ちていた髪の毛をいじった。
マユミが間違えてるんだ。脳内の声が囁いた。
前にイクトを預かりたいとしつこく言われ、アイコに三日ほど預けたことがあった。両手に変わったおもちゃをかかえ、アイコの好きな曲を口ずさみながら帰宅したイクトは「おおきくなったらピアノひくひとになる」と言い、夜は十二時まで起きていた。
私がおかしいの?脳内の声にマユミは無言で返す。
「そうだよ、感謝できないお前がおかしい」
その声がはっきりと聞こえた途端、マユミはハッハッと床に両手をついた。
「だいじょうぶ?」アイコはマユミの背を擦りながら大きくため息をついた。「パニック障害って私もむかーしなったことあるからわかるよー、でも気持ちの問題だから!とにかくゆっくりしてて、ね!」
「…はい」呼吸を整えたマユミがそう返すと、アイコは泣くトウマを無理やり抱き抱えるとそそくさと支度をして、家を出てしまった。
「ママァ!」最後に聞こえたトウマの声が脳内から離れず、マユミは深く深呼吸をしたあと、そのまま眠りについた。
「え?マユミ?」
ハッと目が覚めると焼肉のような臭いを纏わせたマサユキが顔を覗き込んでいた。マユミが目を開けて身体を起こすと緊張がとけたような動作でマサユキは欠伸をした。
「倒れたのかと思ったわ、びびった」
そのまま風呂に向かうマサユキの背中にマユミは声をかける「子供たちはお義母さんがお姉さんの家に連れていったよ」「へー良かったじゃん」
「ていうか、イクトとトウマが今いなかったことに気が付かなかった?」既に上着を脱ぎ捨てたマサユキは「ん?」ともう一度聞き返すようにしたが「ああ」と頷くと「つか今帰ってきたし」と返し風呂場の戸を閉めた。
不安がどろどろとマユミの胸の辺りを這っていた。
「あぁ…」静かな薄暗いリビングでマユミはスマートフォンを手に取った。不安は消えないがこう、時間を気にせずスマートフォンを触るのはいつぶりだろうと思いながら、テレビもつけた。
暗闇でさがしているのは…
ハイトーンの声が聞こえて、それがすぐにアオだとマユミは気がつくと身体を起こした。「すごいタイミング」ひとりごとをいいながら少しばかり身体に熱が戻るのを感じる。じわりと心地よい、それは多分喜びだとかそんな感情だろう。
そのまままた身体を床に預けると、スマートフォンに文字を打ち込んだ。
notnormal アオ 誕生日
それだけで沢山の情報が流れ込んでくる。「身長…意外とおっきいな…」つい微笑みながらマユミはつぶやいた。身長、年齢、バンド結成までの活動、趣味…指はどんどん情報を追っていく。
またボーカルのアオさんは去年結婚を発表されています!女性ファンの方はかなりショックなのでは…
短い二行をマユミは何度も読み返した。
当たり前のことが頭に入ってこない。どこかの誰かはいつだって自由に恋愛を楽しんでも良いのだ。
三十五になったマユミが結婚して子供までいるのに、三十の生きた男性が絶対に誰のものでもないなんて保証はなかった。
「結婚してた」「推し」
マユミはすぐさまカナにLINEを送るが、それは既読になることなくテレビの中のアオが歌い終わる頃だった。
「当たり前だな」「推しも人間だしw」「支えがなくなったー」既読にならないLINEにさらに文字をうちこみ、最後に泣き崩れる犬のスタンプを送ると、スマートフォンは真っ暗になる。
「あっつ」マサユキが身体に湯気をまといながら風呂場からでてくる。「テレビ見てる?」
マユミが首を振ると、アオが何やら歌詞について話しているところだった画面が切り替る。マサユキがゲームを起動する前にマユミは立ち上がると風呂場に入り、戸を閉めた。
乱暴に服を脱ぎ捨て、身体も洗わずに湯船に浸かり目をこらす。「もともといなかったし」言い訳のような声がまだ熱の篭った風呂場に響いた。
両手ですくってみても、クラゲはつかまえられそうになかった。薄暗い風呂場の鏡の中で、三十五歳のマユミとマユミの目が合った。
皺とシミが目立ち、でこが広くなったように感じた。
「ママァ」トウマの声が脳内に響いてイクトが湯を叩いたような気がした。
もう一度湯船の中を覗き込むと、小さな海月が浮いていて、ふわっとそのまま飛び上がると風呂場の窓の外に消えた。
「推しが幸せで良かったじゃん」口を開かずにマユミは言う。「イクトもトウマも、たくさん可愛がってもらって幸せでいいじゃん」
海月はもう戻ってこないようだった。そして「治った」とマユミは思った。
もう、きっと息苦しくなることは無い、マユミは久しぶりに足を伸ばして誰もいない湯船にゆっくりとつかった。
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