うん。わかった。

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うん。わかった。

午後から行われた少年野球の試合を終えて家に帰るとマンションの入り口でバッタリ、パパと鉢合わせた。 「お帰りなさい」 「お、悠太か」 「何処か出かけるの?」 「あぁ。パパはこれから又、会社に戻らなくちゃいけないんだ」 「そうなの?」 パパはいつも仕事から帰って来るのが遅いから こうしてパパの顔を見るのは久しぶりだった。 「悠太ごめんな」 パパはいい僕の頭を撫でた。 「試合、楽しかったかい?」 僕はゆっくりと頷いた。そんな僕を見てパパは大きな身体を屈めて僕の両肩に手を置いた。 「全然、打てなかったけどね」 「そうか。それは惜しかったな。けど一生懸命にやったんだろう?」 「うん」 「なら、次は絶対打てるさ。一生懸命やれば、必ず悠太が望んだような良い結果が得られるんだ」 「そうかなぁ」 「そうさ。いいか悠太、一生懸命やらないと神様が打てないように意地悪してくるんだぞ」 「そうなの?なら一生懸命やって良かった」 そうだなとパパいい僕の顔を覗き込んだ。 「悠太、あのな」 「うん」 「パパ、しばらくの間、家に帰れそうにないんだ」 「どうして?」 「うん。ちょっと色々あってな。けど、心配するな。しばらくしたら又、今までのように帰って来るから」 僕は頷いた。 「良い子だ」 パパは両肩に乗せた手を退けると立ち上がった。何も言わずに出て行った。 後ろを振り返っても、パパはこっちを振り返り、僕に向かって手を振る事はなかった。 そんなパパの姿を見えなくなるまで見送った僕は暗証番号を押してマンション入り口の自動ドアを開けた。エレベーターに乗り11階のボタンを押す。 階数を告げるアナウンスが聞こえると直ぐにドアが開いた。 家の前に着くとインターホンを鳴らした。ママからの返事はない。2、3度押しても同じだった。 「出かけたのかなぁ。でもさっきパパと会ったから、ママも家にいると思うけど…」 ひょっとしたらママは具合が悪くて寝ているのかも知れない。きっとママはパパに電話して仕事から戻って来て貰ったのだ。そうじゃないとこんな時間にパパが家に帰ってくる筈がない。 具合が悪いならママは家に鍵をかけない筈だ。僕を1人外で待ちぼうけにしてしまうから。 僕は手を伸ばし扉の把手を掴んだ。下げるとカチリと音がした。手前に引いてみたら扉が開いた。 僕は中に入ると玄関で靴を脱ぎながら 「ただいま」 と言った。 ママからの返事はなかった。 僕は再びただいまと言った。 それでもママから返事はない。 やっぱり具合が悪くてママは寝てるんだと思い、僕は出来るだけ静かに洗面所へと向かった。 手洗いとうがいをしないとママに怒られるからだ。 泥まみれのユニフォーム脱いで洗濯機に入れた後顔を洗った。 適当にタオルで拭いたその足でリビングに入った。 目に入ったリビングの光景を見て息が止まった。 再び呼吸が出来るまで数秒かかった。 リビングの中はTV、テーブルや椅子などがひっくり返っていた。 床には食器やお皿が散乱し、その全てが割れ、破片があちこちに散らばっていた。 誰かが床に向けて投げつけたのだ。 パパの顔が頭に浮かんだ。 「ママ?」 僕は割れた食器を踏まないよう気をつけながらリビングの中を進んだ。 「ママ?」 さっきよりも大きな声で呼ぶと生温い風がベランダの方から吹き付けて来た。 レースのカーテンが大きく揺れその隙間からベランダにいるママの姿を見つけた。 ママは裸足でベランダに座り込み、肩を震わせていた。 ここからでもママが泣いているのがわかった。 僕はママを励まそうと一歩足を踏み出した。 その時、足の裏に痛みを感じた。 「痛っ」 割れた食器の破片を踏んだらしかった。足を上げてみると破片が刺さっていた。引き抜くと血が垂れ始めた。僕はその小さな破片をテーブルに置いて、再び、踏まないよう、他の割れた食器類を確認した。よく見るとそのどれもがパパが使っているお皿やお箸、フォークやナイフ等の食器類だった。 これらはママが怒って全て投げつけたものに違いない。 僕はそれらを避けながらベランダへと近づいていく。さっきのパパの言葉を思い返した。 「しばらく帰れそうにない…」 そう思うと、昨日の夜、ママが誰かとヒソヒソと話していたのを思い出した。 パパが帰りが遅いからとか、誰かと一緒に遊んでいるだとか、そんなような事を話していたような気がする。 僕はママをこんな風に悲しませたパパを許せないと思った。パパはきっとママ以外の女の人と浮気をしているに違いない。 僕は泣いているママに近寄りながら腰を下ろした。ママの膝の側に落ちていた果物ナイフを拾い上げる。 その時、窓とベランダの間にスマホが落ちているのが目に入った。きっとママのだろう。 僕はナイフを持ったままスマホを拾い上げた。 画面全体にヒビが入っている。 ママがパパの浮気を知って思わず叩き割ってしまったんだと思った。 画面をよく見ると下の方にある電話の受話器の印の所に赤くビックリマークのような物がついていた。何だろうと思いそれを押すと履歴の箇所に女の人の名前が表示された。 そして右下の留守番電話の所にも、また、赤いビックリマークがついていた。 僕はそれを押した。 「おい、小百合、一体、どうなってんだよ?さっき俺の職場に旦那が乗り込んで来たぞ?まさか俺がまだ結婚は出来ないっていったもんだから、腹いせに俺達の事、旦那にバラしたわけじゃないだろうな?…」 僕の手からスマホが抜け落ちる。床に跳ねてベランダにいるママの足に当たった。こちらを振り向いたママの目は赤く晴れ上がり、涙で、化粧は崩れ汚らしかった。 「あ、ゆ、悠太、お帰りな、さい…」 そうか。そうなのか。この割れた沢山の食器類はパパが怒って投げつけたものなんだ。 僕はパパがあんな事を言ったから、 パパが浮気をしていると思ったから この割れた沢山の食器類は怒ったママがパパに向かって投げつけたんだと思ってた。 けど、それは僕の間違いだったようだ。 「ママ、ただいま」 ママは手の甲で涙を拭い僕に微笑んで見せた。 「さっき外でパパに会ったよ。しばらく帰れないって言ってた」 「そ、そう」 僕はママに近寄って行く。 果物ナイフを握った手に力が入る。 その手を背中に回しママを抱きしめた。 ママは両腕を広げて僕を抱きしめ返した。 悠太悠太ごめんね。ごめんね。ママ、悠太に謝らなきゃ…悠太… 僕はうんと返事をしながらベランダの手摺りに視線を向ける。その手摺りは僕の身長よりは低かった。首の下辺りだった筈だ。 僕に謝り続けるママを抱きしめながら、僕は抱きしめる腕に力を込めた。ママの身体を少し持ち上げてみる。殆ど動かせなかった。 ふぅと息を吐きベランダの手摺りから視線を外した。 僕はママの背中に回した手に視線を移し替えした。茶色の鞘がついたままの果物ナイフが僕の手の中にあった。 「ねぇママ」 「ん?何悠太?」 「ううん、やっぱいい。何でもない」 僕はそう言って握った果物ナイフの鞘を外した。夕方の陽が刃に反射する。ママの身体から片腕だけ外した。外した腕には刃が剥き出しのナイフが握られている。 生温い風が僕とママの髪を揺らす。ママの首筋から甘い匂いがした。 暮れかけ始めた太陽が再び刃に反射する。 眩しかった。 「悠太、ごめんなさい。ママ、ちゃんと悠太のママを頑張るから。一生懸命に頑張るから…」 今まで一生懸命じゃなかったんだ。 そうなんだ。だから神様に意地悪されたんだね。 本当に一生懸命じゃないとパパはきっと帰って来ないよ?一生懸命やれば次は良い結果が出るって、さっきパパに教えて貰ったんだ。 だからね。ママ。本当に一生懸命にやらないと… 僕はナイフを握った腕を持ち上げた。そして鞘の中へ刃をしまった。 何もママを許してあげたわけじゃない。 一生懸命にやると信じたわけでもない。 チャンスをあげたわけでもない。 単純に今の僕には出来る事とより出来ない事の方が多いからだ。 ママだからわかるだろうけど、僕、言い訳も下手でしょ? そんな僕だから、知らない大人から問い詰められたら、上手に言い訳も出来ないし、説明も出来ないよ。それって僕が損しちゃうよね? ママが一生懸命じゃなかったせいで、僕が損するなんて嫌だよ。絶対に嫌。 だからそうならないように、大人の人に言い訳や上手な嘘がつけるような歳になるまで… 僕は再びベランダの手摺りを見上げた。 手摺りを乗り越えさせる程の力を得るのはまだ先の未来のようだった。けどこれからママが一生懸命に僕のママをやると言ったように、 僕も一生懸命にママの子供をやるよ。約束するね。 だってさ。一生懸命にやれば僕や、きっとパパも望む良い結果をきっと神様が与えくれる筈だから…
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