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第5話 幽明の狭間に落つる慟哭(1)
またひとつ、夜が明けた――。
夢を見た。
眠りから覚めた〈蝿〉は、ゆっくりとベッドから身を起こし、周りを――現実を確認する。
肌を滑り落ちた毛布は、極上の手触りをしていた。
マットのスプリングは、彼の体重を心地よく受け止めてくれている。
それらの夜具は、それなりに裕福な生活を送っていた彼の過去の記憶においても、まずお目にかかったことのないような上等な品だった。
部屋の中に目を向ければ、贅を尽くした最高級の調度。一般市民が手を触れるのは畏れ多いほどの――。
当然だ。ここは、かつての王の居室なのだから。
……けれど、〈蝿〉の心が踊ることはない。
何故なら、ここには最愛のミンウェイがいない。
双子も同然だったエルファンもいない。
夢の中で共に笑い合っていた彼らが……いない。
ふと視線を落とせば、青黒い血管の浮き出た、自分の手の甲が見えた。
老けたな――と、思う。
老人と呼ばれる年齢にはまだまだ早いが、三十代の記憶を五十路手前のこの肉体に入れられたのは……。
そう思いかけて、〈蝿〉は首を振る。
そうではない。
夢で見た『あのころ』と比べて――老いたのだ。
「……」
昔の夢などを見たのは、おそらく昨晩のリュイセンのせいだろう。記憶の中のエルファンと瓜二つだった。
〈蝿〉は溜め息を落とし、のろのろと身支度を始める……。
部屋を出るとき、扉を飾り立てる天空神フェイレンの彫刻が目に入り、彼は鼻に皺を寄せた。
天空神が大きく翼を広げて下界を見下ろしている。この一見、優美な意匠には、神の罪が隠されていると〈蝿〉は思う。
天空神が広げている翼は、鷹の羽根。鷹刀一族から奪い取ったものだ。
神は、鷹の一族に翼を差し出させ、代わりに刀を授けて守護の任を命じた。故に、鷹刀一族の紋章は、翼が刀と化した鷹なのである。
無論、これは伝承だ。
しかし、この国の王が、鷹刀の血族を〈贄〉に生き存えてきたことを象徴的に示している。
すなわち、天空神の姿は、鷹刀一族への搾取の証そのもの。
――病弱に生まれたミンウェイも、王の犠牲者のひとりだ……。
〈蝿〉は口の中に血の味を覚え、自分が唇を噛んでいたことに気づく。
彼は、何ごともなかったかのように扉に背を向け、歩き出した。
緋毛氈の廊下に朝日が差し込み、〈蝿〉の後ろに長い影を描く。黒い翼を伸ばしたかのようなその姿は、孤独を引きずっているようにも見えた。
定められた日課として、メイシアは今日も『ライシェン』と対面していた。
白金の髪の赤子はいつもと変わらず、硝子ケースの揺り籠で夢見るようにまどろんでいる。ゆらりゆらりと培養液の中をたゆたい、ごくまれに瞬きをしては、美しい青灰色の瞳を彼女に見せてくれた。
しかし、メイシアの心は『ライシェン』にはない。
〈七つの大罪〉のデータベースへの侵入に難航しているルイフォンを想い、彼女は憂いに眉を曇らせる。
彼は今、どうしているだろうか?
邪魔をしてはいけないと、電話は控えた。メッセージは入れておいたが、おそらく読んでいないだろう。集中しているときの彼は、頭が異次元に飛んでいる。寂しくはあるが、別に構わない。そんな懸命なところも、彼の魅力のひとつだと思うからだ。
しかし、〈七つの大罪〉のデータベースは、簡単には侵入を許してくれないだろう。
メイシアの中には、セレイエの記憶がある。だから、そのセキュリティがどんなに強固な障壁であるのかを知っている。そのくせ、メイシアが『セレイエとして』、ルイフォンにその壁の打ち破り方を教えることはできそうにないのだ。
初めて『ライシェン』を見たあの瞬間だけは、メイシアは感覚や感情すらも引きずられ、完全にセレイエと同化した。けれど、それは特別なことだったらしい。
メイシアの中にあるセレイエの記憶は、言うなれば分厚い事典のようなものだ。
さまざまなことが記されているが、それを『持っている』だけでは、内容のすべてを『知っている』ことにはならない。中身を読んで、理解して、初めて身につく――そんな感じなのだ。
だから、セレイエ――あるいは〈影〉となったあとのホンシュアが見聞きした『経験』は、比較的すっと頭に入ってくるのだが、専門的な『知識』となると、にわかではお手上げだった。
「何を考えているのですか?」
苛立ちを含んだ低い声が響き、メイシアの思考は中断された。
椅子に座ったまま、体をひねって振り返ると、いつの間にか背後に立っていた〈蝿〉が、不機嫌な顔つきで彼女を睨んでいた。なかなかセレイエの情報を得られないためか、このところずっと機嫌が悪かったのだが、今日はいつもにも増して眉間に深い皺が寄せられていた。
メイシアは知る由もないことだったが、今朝の〈蝿〉は夢見が『良すぎた』。それで、夢と現実とのあまりの落差に、どす黒い感情が揺らめいていたのである。
「どうにも、あなたは真面目に『ライシェン』と向き合っているように思えませんね」
「……すみません」
逆らっても仕方ないので、メイシアは素直に頭を下げた。そして、そのまま身を固くして、じっとしている。
しかし――。
今日の〈蝿〉は、極めて虫の居所が悪かった。
彼女が殊勝な態度をとっても、彼は満足できなかった。
「――そうですね。あなたが協力的でないのなら仕方ありません。今から、自白剤を使ってみましょう」
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