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第4話 錯綜にざわめく葉擦れの音(6)
ヘイシャオの研究室には、コンピュータの類を始め、棚にいっぱいあったという研究資料が綺麗になくなっていた。古びた薬瓶だけはそのまま残されていたが、なんの役にも立たない。
「〈蝿〉だ……! 〈蝿〉が、あの菖蒲の館に運んだんだ……」
埃に残された台車のような形跡から、まず間違いない。ホンシュアに目覚めさせられ、『ライシェン』を作るように依頼された彼は、昔の資料を持って新しく用意された研究室に引っ越したのだ。
「糞っ……!」
今回ばかりは、〈蝿〉が意図してルイフォンの邪魔をしたわけではないのは分かっている。だが、腹立たしくてならない。足を踏み鳴らすと、床の埃がぶわりと舞い上がった。エルファンとミンウェイは顔をしかめたが……、何も言わなかった。
ここなら、求めている証拠があると信じていた。実際、あったはずなのだ。セレイエの――ホンシュアの記憶を持つメイシアが、そう証言していたのだから。
『報告書の内容は〈七つの大罪〉のデータベースに収められるから、もしヘイシャオさんの研究室が空振りだったら、そちらへの侵入を考えて』
メイシアのことを考えた瞬間、ルイフォンの耳の中に鈴を振るような声が蘇った。
「――!」
確か、そう言っていた。
その直後に、彼女が『契約』に触れて苦しみだしたため、それどころでなくなり、忘れかけていた。
「屋敷に戻る!」
「ルイフォン?」
急に叫んだルイフォンに、ミンウェイが不思議そうな顔をする。
「今すぐ屋敷に戻って、〈七つの大罪〉のデータベースに侵入をかける!」
〈七つの大罪〉は、もはや瓦解した組織。だが、セレイエの記憶を持つメイシアが『ある』と言った以上、データベースはまだ存在する。
しかし同時に、セキュリティもまた健在のはずだ。
「……っ!」
それはつまり、あの母キリファや、あの異父姉セレイエと同等――あるいは、まさに本人たちが組み上げたセキュリティを相手にするということだ。
「――やるしかねぇだろ……!」
緊張からくる震えを、武者震いと言い換え、ルイフォンは自分を奮い立てる。
彼は大股に一歩、足を踏み出し……、困惑したように彼を見守っていたミンウェイと目が合った。
「……ぁ」
自分のことで頭がいっぱいになっていたが、ここはミンウェイの思い出の詰まった場所だ。ある日、突然、何も持たずに出ていったままならば、きっと何か持ち帰りたいものがあるだろう。
「ミンウェイ、すまん。まずは、お前は自分の部屋で……」
「ううん」
ルイフォンの言葉を途中で遮り、ミンウェイは艶めく美声できっぱりと告げる。
「私がこの家で為すべきことは『お別れ』よ。それは、もう済ませたわ。だから、帰りましょう!」
「……すまん。……ありがとうな」
この先の困難を考えると、決して晴れやかな気分とは言い難い。しかし、華やかなミンウェイの笑顔に、この家に来たことは無駄ではなかったとルイフォンは思う。
「ミンウェイ」
それまで、ひとりでごそごそと戸棚を漁っていたエルファンが、どこからともなく古びた刀を出してきた。そして、きょとんとするミンウェイに、その鍔飾りを示す。
そこには優美に舞う蝶の姿が描かれていた。
「お前は、この鍔飾りを知っているか?」
「いいえ。――その刀は……?」
「ヘイシャオの刀だ。見覚えがある。病弱な私の妹が、蝶のように自由に羽ばたけるように、との願を掛けていた」
エルファンの妹――すなわち、ヘイシャオの妻で、ミンウェイの『母親』だ。
「え……? でも、お父様はいつも、小さな花の鍔飾りを使っていて……」
可憐な小花は、きっと母をイメージしたものなのだろうと、ミンウェイは思っていた。父は幾振りかの刀を持っていたが、それらはどれも花の鍔飾りだった。
どういうことかと彼女が首を傾げると、ルイフォンが口を挟む。
「俺も、〈蝿〉の鍔飾りを見たことがある。メイシアが鷹刀に来た翌日に、〈蝿〉に襲われたときだ。――奴には似合わないような、可愛らしい花の意匠だったから、よく覚えている」
ルイフォンが、初めて本気で死を覚悟した瞬間に見たものが、それだった。
エルファンは、ふたりの様子を交互に見やり、そしてふっと微笑んだ。……彼にしては珍しく、切なげな優しさを漂わせていた。
「ヘイシャオが『大切なもの』を仕舞い込むときの癖を思い出してな。何かあるかと探してみたら、この刀が出てきた。――『大切なもの』といっても、壊れてしまったけれど捨てられない記念の品のような、そういう使えない、使うつもりのないもの、だ」
「エルファン? どういう意味だ」
謎掛けのような言葉に、ルイフォンは尖った声で尋ねる。
しかしエルファンの低音は、それを柔らかに受け止めた。
「ヘイシャオが、ミンウェイを連れて私のもとにやってきたとき、あいつが使っていた刀の鍔飾りは花だった。小さすぎて見た目では花の種類は判別できないが、あいつの考えることなら分かる。――あれは『ベラドンナの花』だ」
ルイフォンの隣で、ミンウェイが大きく息を呑む。
「あいつは妹の死後、蝶を封じて、花と共に在ろうとしたんだな……」
そして、ルイフォンは仕事部屋に籠もる――。
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