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第4話 錯綜にざわめく葉擦れの音(7)
昼夜を知らぬ、ルイフォンの仕事部屋。
窓はなく、機械類にとって常に最適な温度に保たれた密室は、外界とは切り離された異空間である。その中で、ルイフォンは車座に配置された機器の間を飛び回るようにして、あちらこちらでキーボードを打ち鳴らし、あるいはモニタ画面に目を走らせていた。
リュイセンを解放するために、ミンウェイが『母親』のクローンである確たる証拠を手に入れる。――そのために、〈七つの大罪〉のデータベースへの侵入を試みているのだった。
「……っ!」
ルイフォンは舌打ちをした。
癖の強い前髪を掻き上げ、頭皮にがりがりと爪を立てる。
作業は難航していた。そもそも、取っ掛かりすら分からない状態だった。
そして――。
「……あ」
はたと思い出し、彼は携帯端末を取り出した。
案の定、メイシアからのメッセージが届いていた。
ヘイシャオの研究室での証拠探しはどうなったのか。こちらは、夕食までは誰も部屋に来ないから連絡してほしい、という内容が、彼女らしい遠慮がちな文章で綴られていた。
「あー……」
端末の隅に表示されている時刻を目にして、ルイフォンはしまった、と思う。
既に、夕方だった。
ヘイシャオの研究室が空振りに終わり、取って返して屋敷に戻ったあと、彼は仕事部屋に引き籠もった。
そのときは、すぐにもメイシアに連絡をしたいと思っていた。だが、まだ午前中の早い時間で、彼女は〈蝿〉の地下研究室にいると知っていたために後回しにしたのだ。
メッセージを入れておく、という発想はない。面倒臭い。
それよりも、彼女がいる時間に、直接、電話をかけたほうが、声も聞けて一石二鳥だと考えた。敵が情報機器に詳しくない〈蝿〉だと分かっている以上、音声通話の傍受を警戒する必要はないのだ。また、『彼女がひとりのとき以外は、端末の電源は切っておく』と取り決めてあるから、不用意に呼び出し音を鳴らしてしまう心配もない。
そんなわけで、彼女が昼食を終えたころに電話をしようと思っていた……のだが、気づいたらこの時間だ。メイシアは、さぞ気をもんでいることだろう。
周りを見渡せば、車座に並べられた机のひとつに、サンドイッチが載っていたと思しき皿が置いてあった。……そういえば、昼にミンウェイが持ってきてくれたような気がする。
頭が異次元に行っていた彼は、無意識のうちに食事を摂りながら作業をしていたらしい。完全に記憶が飛んでいるが、よくあることだ。
幸い、メイシアの夕食の時間までには、余裕があった。今なら、まだ大丈夫だろう。
ルイフォンは、携帯端末に指を走らせる。
今朝、出発前に電話をしたときは、随分と大見得を切った。……しかし、空振りに終わってしまった。
勿論、〈蝿〉が先に資料を持ち出していたのはルイフォンのせいではない。だが、そのあと何時間も掛けているのに〈七つの大罪〉のデータベースの糸口すら掴めていないのは、クラッカーとしてあまりにも面目が立たないだろう。
「……」
滅多にないことだが……、メイシアと話すのが気が重かった。
「ル、ルイフォン!?」
電話に出た瞬間のメイシアは、焦ったような様子だった。
かといって、まずいことが起きているふうでもない。どちらかというと嬉しそうな、弾んだ声だ。
……囚われの身の彼女に、どんな良いことがあったというのだ?
気になる。
しかし今は、先に重要な報告をすべきだろう。状況は、極めて芳しくないのだ。
彼女の話はあとで教えてもらうことにして、ルイフォンは、まずは連絡が遅れたことを詫び、現状について説明をした。相槌を打つ彼女の声は、すぐにいつも通りに戻り――否、真剣な、ややもすれば『沈んだ』響きになり、ルイフォンの胸が傷む。
「……――というわけで、今、全力で〈七つの大罪〉のデータベースに侵入をかけようとしている」
『ごめんなさい。私が、ヘイシャオさんの研究室には資料がたくさんあった、なんて言ったから……』
「なんで、お前が謝るんだよ?」
なんでもかんでも自分に非があるように捉えるのは、彼女のよくない癖だ。
『私が太鼓判を押したから、ルイフォンも期待していたと思うの……』
「何、言ってんだよ。お前の持つホンシュアの記憶よりもあとに〈蝿〉が資料を持って行っちまったんだから、仕方ないだろ?」
『うん……、でも……』
「それよりさ……」
ルイフォンは、変に責任を感じて落ち込んでいる彼女に、明るく声を掛ける。気の重い報告はもう終えたことだし、先ほど気になった件を訊く、ちょうどよいタイミングだと思った。
「お前のほうは何があったんだ? ――いいことが、あったんだろ?」
『えっ!? あ、あああ……、あのっ!』
メイシアの声が急に上ずった。
「?」
随分とおかしな反応だな、と首をかしげながら、ルイフォンは促す。
「教えてほしい。お前にいいことがあったなら、俺も嬉しいからさ」
『ええと……、ええと、ね。……ちゃんと、ルイフォンに言おうと思っていたんだけどね……』
あからさまに不審である。
そして、妙な態度ではあるが、彼女は機嫌がいいように思えた。
ルイフォンは、面白くないと感じた。
理由は単純だ。
――俺以外の奴がメイシアを喜ばせるなんて、許せん!
心の中で叫んでから、さすがにそれは狭量だと思い直す。
しかし……、釈然としなかった。侵入がうまくいかなくて、気が立っていたというのもあるだろう。
「何があったんだ?」
棘のあるテノールが、口をついて出た。
言ってから、感じが悪かったなと反省する。もっとも、ルイフォンにとっては幸運なことに、電話口の向こうで密かに百面相をしていたメイシアは、彼の口調の変化に気づいていなかった。
『……あ、あのね。スーリンさんから、メッセージをいただいたの』
「……は? スーリン?」
メイシアの携帯端末の受け渡し場所として、シャオリエの娼館の世話になった都合上、スーリンもメイシアが囚われていることを知っている。だから、心配してくれたのだろう。
『ご迷惑をおかけしたのに、私のことを励ましてくれたの。凄く嬉しかった』
「あ……、ああ……」
メイシアとスーリンの仲が良いという、不可思議な現実に対しては複雑な思いがあるため、ルイフォンとしてはどうしても歯切れが悪くなる。
だが、メイシアがスーリンのメッセージに喜んでいるというのなら、納得のいく話だ。
素直に、良かったなと思う。ささくれだっていた感情が、すっと落ち着いていく。
その間にも、メイシアの言葉は続いていた。
『それで、スーリンさんがね。是非、私に見せたいという写真を添付してくれたの』
「写真? なんの写真だ?」
普段の彼だったら、ここですぐにピンときたはずだった。しかし彼の頭は、難航する侵入作業のおかげで疲れ切っていた。
『ええと……、あの、ね』
メイシアが口ごもる。
だが、ルイフォンに隠しごとをしないと誓いを立てている彼女は、素直に告白する。
少し、遠慮がちに。
けれど、とても嬉しそうに。薔薇色に頬を染めた声で――。
『『ルイリン』さんの写真……』
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