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第4話 錯綜にざわめく葉擦れの音(9)
夜になり、〈蝿〉は自室と決めた、王の部屋で睡眠を取るために研究室を出た。
扉を開けた瞬間、地下通路の闇が迫る。
光に慣れていた目は暗がりの負荷に圧されるが、彼の鋭敏な感覚は闇に溶け込む人の気配を見逃したりなどしなかった。
「どうしましたか? ――リュイセン」
唇に薄笑いを載せて、低く問う。
その声に応えるように気配はゆっくりと近づいてきて、研究室内から漏れ出す光がかろうじて届くという位置で止まった。
高い鼻梁と頬が白く照らし出され、他の部分は黒く沈む。黄金比の美貌は、若いころのエルファンにそっくりだ。初めて出会ったころのリュイセンは、図体ばかりが大きな、甘っちょろい若造といった体であったが、今は抜き身の刀のような凄みをまとっている。
あからさまな敵意を向けられても、どこか愛しく感じるのは、遥か昔に捨てた一族そのものの姿を彼が有しているからだろう。どうやら〈蝿〉は、思っていた以上に、かの血を持つ者に郷愁の念を抱いているらしい。無論、還ることなどできはしないが。
「……そういえば、お前に文句を言い忘れていたな、と思ってな」
威嚇するように、リュイセンが顎を上げると、肩で揃えた髪が後ろに流れ、背後の闇と同化する。
「文句ですか」
〈蝿〉は、ほんの少し口の端を上げた。
心当たりがありすぎて、苦笑するしかない。
「何が可笑しい?」
「いえ。なんでもありませんよ」
瞳に険を載せたリュイセンの苛立ちを、〈蝿〉は軽い吐息と共にさっと払う。
リュイセンは、むっと眉を吊り上げ、しかし、追求はしなかった。不毛な言い争いになれば、口が達者ではない彼が不利になることが明白だったからだ。
故に、話が横道にそれないうちにと、リュイセンは単刀直入に口火を切った。
「お前――、『メイシアは、いずれセレイエに乗っ取られて消えてしまう』と言っていたが、嘘だってな」
「あの小娘から聞いたのですか」
「ああ」
「ふむ……」
別に、どうということはない。
リュイセンを世話係にすれば、そのくらいの話はするだろう。あのおめでたい小娘は、リュイセンが裏切ったとは考えていないのだから。
彼女は、一緒に逃げようと持ちかけたはずだ。
しかし、リュイセンは決して応じない。〈ベラドンナ〉のために〈蝿〉に従う。
初めは希望を持っていた彼女も、やがて絶望に染まっていく。それは、さぞ愉快なことだろうと思ったからこそ、リュイセンをそばに置いたのだが、あの貴族の娘は存外しぶとく、いまだに諦めていないようだった。
王族の血を濃く引く、小娘――。
神話の時代から、鷹刀一族を支配してきた王家に連なる者。
まったく忌々しい……。
「俺を騙したな」
リュイセンの低いうなり声に、〈蝿〉は思考を呼び戻された。
「さて? 〈天使〉やら記憶やらについては私は門外漢ですので、あなたを誤解させるような言い方をしてしまったのかもしれませんね」
「はん! わざとだろ? お前は『生を享けた以上、生をまっとうする』と言っていた。そのためにメイシアを利用してやるんだと。――だから、俺を騙してメイシアをさらわせた」
噛み付くような口ぶりも、〈蝿〉から見れば負け犬の遠吠え。憐れみの眼差しを向けるだけで、特に言い返す気にもならない。
「お前は、自分が生き残るためには手段を選ばない。――卑劣だ」
「ええ。否定しませんよ」
柔らかな声色で、〈蝿〉は口角を上げる。過ぎたことに固執するリュイセンが滑稽でならなかった。
世話係として、常にあの小娘と顔を合わせなければならないのが相当こたえているのだろう。リュイセンは、〈蝿〉をなじらなければ気がすまないのだ。
「そんなに『死』が怖いのかよ? 死んだら何もかもなくなると、恐れているのか?」
リュイセンは嘲るように言う。
けれど、その声には引きつったような響きが含まれており、逆らうべきではない相手を揶揄することへの恐怖を必死に隠そうと、虚勢を張っているように聞こえた。
「死んだあとのことなど、どうでもよいことですよ。考える価値もありません。大切なのは、生きていることなのですから」
〈蝿〉は、できの悪い子供を嘆くように溜め息をつく。
そのとき、演技じみた仕草で肩をすくめ、視線を下げた〈蝿〉は気づかなかった。
ほんの一瞬。
瞬きをするよりも、ごくわずかな刹那、リュイセンの美貌が凍りつき、その瞳が大きく見開かれたことに――。
「無駄話は、このくらいでよろしいですか? もう、夜も更けています。私は休みたいのですよ」
〈蝿〉は、論ずるに足りぬ戯言を好まない。
だから、この中身のない会話を打ち切りたかった。
そして、『目的を果たした』リュイセンもまた、不快感しか感じられない〈蝿〉と顔を突き合わせている意味を終えた。
「邪魔をしたな」
リュイセンは愛想なくそう言い、足早に立ち去る。
高鳴る鼓動を〈蝿〉に悟られないよう、一刻も早く、ひとりになる必要があった。
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