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第5話 幽明の狭間に落つる慟哭(2)
「……え?」
メイシアは耳を疑った。
〈蝿〉は今、なんと言ったのか?
「自白剤……です、か……?」
顔面が蒼白になる。
紫がかった薄紅の唇から漏れたのは、確認というよりも、ただの呟きだ。
「ええ」
椅子に座ったメイシアの耳に届くよう、〈蝿〉がわずかにかがんだ。その拍子に白衣の裾が揺れ、床に落ちた影が黒い翼のようにはためく。
「自白剤で駄目なら、あなたの脳に電極を刺し、刺激を与えてみます。ありとあらゆる手段を講じてみましょう」
『悪魔』が発する囁きに、メイシアは目の前が真っ暗になった。
――甘かったのだ。
そもそも〈蝿〉は、一週間くらい『ライシェン』と対面してみようと、気まぐれに言っただけだ。いつしびれを切らしてもおかしくなかった。一週間の猶予が確実である保証など、どこにもなかったのだ。
メイシアのすべては、〈蝿〉の掌にある。
歯の根が合わず、メイシアの口が、かちかちと小さな音を立てる。
全身が震え始め、それを押さえようと彼女は自分の体を掻き抱く。しかし、小刻みに揺れる長い黒絹の髪が、彼女の激しい脅えをあらわにするだけだった。
まるで命乞いをするかの様子に、〈蝿〉は美麗な顔を醜く歪めて破顔した。そして、白衣を翻し、薬棚のある部屋の奥へと向かっていく……。
その瞬間、メイシアの心臓が跳ねた。
自白剤について、彼女はミンウェイに聞いたことがあった。
それは、泥酔した人間に秘密を吐き出させるようなものだという。
だから、知りたい情報を得られるとは限らない。逆に、思いもよらなかったことを勝手に喋り始めることもある。
つまり。
もしも、今のメイシアに自白剤が投与されたら……、口にしてしまうのはセレイエに関する情報だけではないかもしれない。
ルイフォンのことを――彼と連絡を取れたことを、告白してしまうかもしれない。
タオロンやファンルゥが協力してくれたことを、打ち明けてしまうかもしれない。
そうなれば、今まで苦労してきたすべては水泡に帰す。そして、タオロン父娘は、危険に晒される……!
「ま、待ってください!」
メイシアは、弾かれたように立ち上がった。
「私は、あなたを騙していました……!」
閉ざされた研究室に響き渡る、凛と澄んだ声――。
迷いはなかった。
今、為すべきことは、〈蝿〉の後ろ姿を引き止めることだ。
「私は――本当は、セレイエさんの記憶をすべて受け取っています」
〈蝿〉の足が、ぴたりと止まった。
白衣の裾と、その影だけが慣性に流されていく。
「……」
沈黙の中で、〈蝿〉の広い肩が、わなわなと恐ろしげに震えた。
メイシアは縮み上がりそうな心を奮い立たせ、あらん限りの力を振り絞って叫ぶ。
「だけど! あなたになんか何も教えたくなかった! ……だから、嘘をつきました!」
「小娘――!」
振り返った〈蝿〉の顔は、驚愕と憤怒に彩られていた。
彼は、にわかには言葉が続かず、半端に口を開けたまま。その隙に、メイシアは畳み掛ける。
「でも、自白剤を使えば、私の嘘はばれてしまうのでしょう? だったら、先に私から――……きゃあぁっ!」
最後まで言うことはできなかった。
大股に近づいてきた〈蝿〉が、メイシアの襟首を掴み上げたのだ。
「この私を――騙していた、だと……!?」
「は……、い……」
咳き込みながらも、メイシアは毅然と答える。
苦しい呼吸の中で、懸命に打開策を組み立てる。
これは戦いなのだ。
喰うか喰われるかの、戦い。
物理的な、肉体的な勝負では、メイシアの身柄を自由にできる〈蝿〉が圧倒的に優位。これを覆すことはできない。
だから彼女は、別の方向から〈蝿〉に立ち向かう。
それは『情報』――ルイフォンが使う武器。
『情報を制する者が勝つ』
ルイフォンの持論だ。
セレイエの記憶を受け取ったメイシアは、多くの情報を手に入れた。
だから、きっと手段はある……。
「ほぅ、それで? 嘘がばれる前に白状すれば、私が許すとでも?」
メイシアの思考に割り込むように、〈蝿〉の低い声が耳朶を打つ。
ばらけそうになる意識を必死にかき集め、メイシアは首を振る。
――ルイフォン……!
脳裏に、彼の顔を思い浮かべる。
刹那、彼女は閃いた。
最強の切り札を――。
「あなた……は、許してくれるような……人、じゃない……。でも、先に……言えば、まだ……話を聞いて……くれ、る……」
「はっ! 一度、嘘をついた人間の話など、誰が聞くというのですか?」
嘘まみれの〈蝿〉が口にするには、あまりにも滑稽な台詞だった。けれど、厚顔な彼はそのことに気づいていない。
「ほら……、こうし、て、……今、だって……、話を、している……」
〈蝿〉を見上げ、メイシアは嗤う。
彼を挑発するように、婉然と。花の顔を、美しく妖しく歪めながら。
「馬鹿馬鹿しい」
〈蝿〉は言い捨て、メイシアの襟を離す。
その途端、メイシアは床に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。
「あなたが『鷹刀セレイエの記憶を受け取った』と白状したなら、今こそ、私は自白剤を使えばよいだけでしょう?」
床にうずくまるメイシアを打ち捨て、〈蝿〉は再び、薬棚へと向かう。
その背中に向かって、床に座り込んだままのメイシアが上半身を起こして叫んだ。
「〈蝿〉!」
けれど、彼が立ち止まることはなかった。
それでも構わない。
こちらには、最強の切り札がある。
「私は『亡くなった、あなたの奥様』を生き返らせることができます」
その声にも、〈蝿〉は歩み続ける――。
しかし……、彼の肩はわずかに揺れていた。
「奥様の『肉体』は、すぐそこにあります。そして私なら――私が〈天使〉になれば――既に亡くなった方の『記憶』を手に入れることができます」
メイシアは言葉を重ねる。
〈蝿〉の心を揺さぶるために。
「『肉体』と『記憶』。このふたつがあれば、奥様の『蘇生』は可能でしょう?」
見えない刃で、〈蝿〉を斬りつける――!
『既に死んだ人間の『記憶』を手に入れられる』
嘘ではない。……おそらくは。
セレイエから受け取った記憶――情報からすると、理屈の上では可能なはずだ。
ただし、〈蝿〉が信じるかどうかは――。
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