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第5話 幽明の狭間に落つる慟哭(3)
「……小娘」
ゆらり、と。
幽鬼のように、〈蝿〉が振り返った。
「よりによって、詭弁にミンウェイを持ち出すとは……」
愛する妻を駆け引きに利用された。その屈辱に〈蝿〉は激憤していた。
彼はゆっくりと、ゆっくりとメイシアに近づいてくる。
「その減らず口、どうしてやりましょうか……?」
地の底から湧き上がってくるような、低い声。
彼の深い憤りが――否、妻を想う慟哭が、床を通じて伝わってくるような気がして、メイシアは戦慄した。
逆鱗――だ。
分かっていて、口にした。
メイシアは罪悪感を振り払い、正面から〈蝿〉と向き合う。
黒曜石の瞳をいっぱいに見開き、静かに口を開く。
「一度、嘘をついた私の言い分を信じないのは、賢明な判断だと思います」
彼女は、すっと自分の胸に手を当てた。
それは、はちきれそうな心臓を押さえるためであったが、結果として、ぴんと姿勢が正され、毅然とした構えとなった。
「ですが、〈蝿〉――。技術的にそれが可能か否かを検討しないとは、あなたは〈七つの大罪〉の〈悪魔〉として、随分と浅慮ではありませんか?」
メイシアは、凛と対峙する。
美しい戦乙女の顔をして。
「――っ!」
メイシアの言葉は、あまりにも正鵠を射ていて、知を誇る〈蝿〉には我慢のならないものだった。憎々しげに顔を歪め、彼は吐き捨てる。
「はっ! それもこれも、自白剤を使って、あなたに喋らせればよいだけのことです」
「お断りします」
メイシアは即答した。
そのあまりの素早さに、〈蝿〉は呆気にとられた。彼が二の句を継げずにいるうちに、彼女は続ける。
「大嫌いなあなたに屈するなんて、私の矜持が許さない」
それは、ただの我儘に聞こえたのだろう。ようやく口をきけるようになった〈蝿〉は、さも可笑しそうに鼻で笑った。
「囚われのあなたに、そんなことを言う資格はないでしょう?」
「いいえ。取り引きが成立する間柄だと思います」
「取り引き? あなたと私が? 何をそんな世迷い言を」
〈蝿〉の哄笑の中で、メイシアは冷静に告げる。
「私は、あなたの奥様を蘇らせます。その代わり……」
「ほう!」
彼はメイシアを遮り、揶揄するような奇声を上げた。それは、失ったはずの妻を取り戻すという、あまりにも魅力的な誘惑に囚われないようにするための、無意識の防御だった。
そんな夢物語を信じられるほど、〈蝿〉の心は希望に満ちていない。それでも、絶望の中から見げれば、思わず手を伸ばしたくなるような光が、彼は怖かった。
メイシアを見下ろし、〈蝿〉は言い放つ。
「『その代わり』、――見事、ミンウェイを生き返らせてみせるから、自白剤を使わずとも自分の言うことを信用しろ、とでも?」
彼の喉の奥から、虚勢にまみれた低い嗤いが漏れた。
メイシアは、ごくりと唾を呑み込んだ。
ここで、自白剤にこだわるような発言をしてはならない。
彼女の真の目的が、単にこの場を切り抜けることであったとしても。
展望室に戻って、ルイフォンに事態の急変の連絡を入れることであったとしても。
その結果、タオロンに頼んで〈蝿〉を討ち取ってもらうことだったとしても……。
間違えてはいけない。
彼女が提示すべき要求は、これだ――!
「私を、ルイフォンのもとに帰してください!」
メイシアは立ち上がり、〈蝿〉にぐっと迫る。
その勢いに、黒絹の髪がふわりと舞う。
つぶらに見開かれた黒曜石の瞳が、ぎろりと〈蝿〉を睨み……、ひとしずくの涙が、堪えきれなくなったように、きらきらとした軌跡を描きながらこぼれ落ちた。
「あ……」
泣くつもりなど、なかった。
これは、〈蝿〉を喰らうための演技なのだから。
けれど、今、口にした思いは本当で、心からの切望で――。
「なるほど、そうですね。あなたの望むことなど、それしかありませんね。私としたことが愚かなことを訊きました」
ほんのわずかな狼狽を混ぜながら、〈蝿〉が口の端を上げる。
「しかし、それなら何故もっと早く、その要求を出さなかったのですか? あなたは帰りたいのでしょう? あの子猫のもとへ」
〈蝿〉の弁はもっともだ。
だが、彼の疑念をかわすための答えなら、メイシアはあらかじめ用意してあった。
「……何を言っているのですか、あなたは……! 分かって……いないのですか!?」
彼女は声を震わせる。
「亡くなった方の記憶を集められるようになるために、私は……、私はっ……、……〈天使〉にならないといけないんです!」
本当に〈天使〉になるつもりなどない。けれど、想像しただけでも恐ろしく、彼女の脅えは本物だった。
「そんなこと、簡単に決意できない! ――でも、このままここにいたら、私はあなたのいいようにされるだけです。それなら、私は自分の誇りを守るため、〈天使〉になることを選びます!」
彼女は〈蝿〉に詰め寄る。
言葉の罠で、彼を絡め取る。
「ふむ。理屈は通っているようですね。……しかし、死んだ人間の記憶を手に入れることができるなど、信じられませんよ。どうせつくなら、もう少しましな嘘を……」
「できます!」
凛とした声が、〈蝿〉の言葉を打ち消した。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』が、その証拠です!」
「『デヴァイン・シンフォニア計画』?」
唐突に出された、諸悪の根源たる名称に〈蝿〉は眉をひそめる。
「『デヴァイン・シンフォニア計画』は、亡くなったライシェンの『肉体』をあなたに作らせ、『記憶』を〈天使〉であるセレイエさんが用意して、ライシェンを生き返らせるという計画です」
メイシアはそこで一度、言葉を切り、ゆっくりと解き明かすように言う。
「ライシェンの暗殺は、まさかの出来ごとでした。当然のことながら『生前のうちに、保存しておいた記憶』などありません。だから、ライシェンが亡くなったあとで、セレイエさんが掻き集めたんです」
――これは、事実だ。
記憶の集め方を詳しく説明すれば、王族の『秘密』に触れるため、ルイフォンには言っていない。しかし、〈悪魔〉である〈蝿〉になら言える……。
「!」
〈蝿〉が息を呑んだ。
しかし、それでも抗うように、彼は言葉を漏らす。
「赤ん坊の記憶など、なくても構わないでしょう? 私が『ライシェン』の肉体を作れば、それで生き返ったことに……」
「それで、セレイエさんが満足すると思いますか!?」
畳み掛けたメイシアに、〈蝿〉は押し黙った。
彼女の話に破綻はないと、彼の頭脳は悟ってしまったのだ。それを屁理屈で否定していくほど、彼は愚者ではなかった。
「詳しい話を……聞いて差し上げてもよろしいですよ」
地下研究室に、乾いた低音が響いた。
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