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第5話 幽明の狭間に落つる慟哭(4)
〈蝿〉は、メイシアに椅子に座るよう、目線で促した。それから、彼自身も作業机から椅子を運んできて、彼女と向き合うようにして腰を下ろす。
「それで、いったいどこから、とうの昔に死んだミンウェイの記憶を掻き集めるというのですか?」
嘲るような口調だった。
けれど、いつものような高飛車な威圧感はない。
メイシアを論破して、あり得ない夢物語を騙った彼女に鉄槌を下してやろうと意気込んでいるような、そうでなければならないのだと強迫観念に駆り立てられているような、そんな心の揺らぎが垣間見えた。
『『亡くなった、あなたの奥様』を生き返らせることができます』
それは、どんなに胡散臭くとも、〈蝿〉にとっては甘美な誘惑以外、何ものでもないだろう。だから、深い猜疑の眼差しの中に、すがるような惑いが混ざる。
彼の反応は、まさにメイシアの思惑通り。
しかし、だからこそ罪悪感が彼女を襲う。
この場を乗り切るためだけに、〈蝿〉の心のもっとも弱く、純粋なところを衝くのだ。得体のしれない恐怖が胸を占め、声が詰まる。
「小娘。私は訊いているのですよ? それとも、やはり嘘だったということですか?」
〈蝿〉が先を急かすのは、彼の気持ちに余裕がないから。めったにないことだ。ひるんでいる場合ではない。
彼女は意を決し、掌を握りしめながら恐る恐る口を開いた。
「〈冥王〉……です」
「――!」
刹那、〈蝿〉の顔つきが明らかに変わった。突き刺すような視線で、メイシアの顔を凝視する。
彼女は早鐘を打つ心臓を押さえ、すかさず言を継いだ。
「〈蝿〉……、あなたも〈悪魔〉なら、創世神話の真実を知っているのでしょう?」
「創世神話の……真実」
繰り返された〈蝿〉の声は、あまりにも低くて感情の色が見えない。
恐ろしいほどに張り詰めた空気を肌で感じながら、メイシアは努めて平然を保ち、畳み掛ける。
「すべての人の記憶は〈冥王〉に集約されます。ならば、亡くなった奥様の記憶は、今も〈冥王〉の中に残っているはずです」
〈蝿〉の喉仏が、こくりと動いた。
「……あなたの中には、本当に『鷹刀セレイエ』がいるのですね」
その呟きは、メイシアとの受け答えからは少しずれていた。だから、おそらくは独白だったのだろう。
もしかしたら彼は、メイシアがセレイエの記憶を得たことすら半信半疑だったのかもしれない。そこに、一部の王族か、〈悪魔〉しか知り得ないことを口にしたことで、彼女の中のセレイエを――〈悪魔〉の〈蛇〉を確信したのだ。
〈蝿〉は、おもむろに腕を組み、椅子の背にもたれて思案を始めた。
肘に回された長い指先が、苛々と小刻みに白衣を叩く。眉間には深い皺が刻まれ、美麗な顔は不機嫌にしかめられていた。
ふたりの間に、重い沈黙が訪れる。
メイシアは、固唾を呑んで〈蝿〉の様子を見守る。
彼女が話した情報は、すべて真実だ。だが、彼がそれを信じ、乗ってくるか否か――。
別に取り引きが成立しなくてもいいのだ。ただ、ひとこと『少し、検討させてください』と言わせることができればいい。
そうなれば、メイシアは自白剤を投与されることなく展望室に戻される。昼食のあとのひとりきりの時間に、ルイフォンと連絡を取れる。タオロンに〈蝿〉の暗殺を依頼できる……。
メイシアの心臓が、激しく脈打った。
額にはうっすらと汗が浮かび、目眩がしそうになる。
今ここで、〈蝿〉をその気にさせなければならない。
……けれど、それがうまくいったところで、リュイセンを解放し、彼を味方に迎えて〈蝿〉を討つというルイフォンが目指した道は、もはや、たどることができないのだ。
口の中に、苦い味が広がる……。
「――なるほど」
不意に、〈蝿〉の声が響いた。忙しなく動いていた指先が、ぴたりと動きを止める。
彼が口角を上げ、次の瞬間、弾かれたような哄笑が沸き起こった。
「〈蝿〉!?」
メイシアは狼狽する。
「私としたことが、あなたに惑わされるところでした」
ひとしきり嗤ったあと、彼は落ち着き払った低音で告げた。
「……ど、どういうことですか……!」
メイシアの問いかけに、しかし〈蝿〉は直接的には答えずに、薄ら笑いを浮かべる。
「そうですね。確かに〈冥王〉ならば、ミンウェイの記憶が残されているでしょう。可能性を示してくださったあなたには感謝いたします」
〈蝿〉は大仰に頷いてみせてから、演技じみた仕草で肩をすくめる。
「しかし、膨大な記憶を保持する〈冥王〉の中から、ミンウェイの記憶だけを選んで取り出すのは、砂漠の中から一粒の砂を拾い上げるようなものです。現実的ではありませんね」
「ですが! 事実として、セレイエさんは〈冥王〉の中からライシェンの記憶を手に入れたんです!」
「ほぅ?」
揶揄するように〈蝿〉が相槌を打つ。
「本当です! 並の〈天使〉では到底、不可能ですが、王族の血を引くセレイエさんには可能でした。そして、それなら、より濃い王族の血を引く私が〈天使〉になれば……」
そう言いかけたところで、〈蝿〉は『掛かったな』とばかりに、にやりと目を細め、メイシアの言葉を遮った。
「ええ、そうですね。つまり、『鷹刀セレイエ』と『〈天使〉になった、あなた』――どちらでも、ミンウェイの記憶を手に入れることができる、というわけですね」
「え?」
「ならば私は、あなたからは鷹刀セレイエの居場所を聞き出すにとどめ、ミンウェイの記憶に関しては鷹刀セレイエと取り引きしますよ。彼女には、ライシェンの記憶を手に入れた実績があるそうですしね」
「――っ、そんな……」
メイシアの顔が凍りつく。
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