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第5話 幽明の狭間に落つる慟哭(6)
「何をふざけたことを……!」
わなわなと唇を震わせる〈蝿〉に、メイシアは静かに告げる。
「ライシェンの記憶を集めたことによって、セレイエさんは限界を超え、熱暴走を起こしました。――あなたがさっきおっしゃっていた通り、私なら熱暴走とは無縁だったでしょう。けれどセレイエさんの中の王族の血は、そこまで濃くなかったんです」
「……!」
「セレイエさんは分かっていました。死者の記憶を集めるなんて無茶をすれば、命を落とす、って。――だからこそ、『デヴァイン・シンフォニア計画』の水先案内人として、『〈影〉のホンシュア』が必要だったんです」
「――っ!? 摂政に命を狙われているから、鷹刀セレイエは〈影〉にすべてを任せて、姿を消しているのでは……」
そう言ってから、「そんなことは、どうでもいい」と呟き、〈蝿〉は頭を振った。そして、メイシアの話に破綻を見出そうと、白髪頭を掻きむしる。
しばらくの間、うなるような声を上げていた〈蝿〉だが、急に、はっと思いついたように「小娘」と口を開いた。
「鷹刀セレイエが命を懸けて手に入れたという、ライシェンの記憶はどこにあるのですか?」
にたり、と。
笑んだ口元が、余裕を取り戻す。
「王族の血を引いた鷹刀セレイエの容量なら、自分の記憶以外に、ライシェンの記憶も保持できるでしょう。しかし、鷹刀セレイエの代わりとなった、水先案内人のホンシュアの肉体は一般人です。鷹刀セレイエとライシェン――ふたり分の記憶を持つことはできません。鷹刀セレイエが死ねば、ライシェンの記憶は失われることになります」
ほら、ほころびを見つけたと、〈蝿〉の顔が愉悦に歪む。
彼は、意気揚々として続ける。
「せっかく、ライシェンの記憶を手に入れても、肉体ができる前に失われてしまったら意味がありません。だいたい死んでしまったら、鷹刀セレイエは蘇ったライシェンと再会できないのですよ? ……本当は、どこかで生きているのでしょう?」
セレイエが死んだことにしたほうが、〈蝿〉と取り引きをしたいメイシアにとって都合がよい。だから、嘘をついているのだろうと、〈蝿〉は言っているのだ。
しかし、メイシアはゆっくりと頭を振った。
そして、自分の中にある、セレイエの切ない思いを噛み締め、吐き出すように告げる。
「セレイエさんは、亡くした息子に再び会いたいから生き返らせたいのではありません。理不尽に奪われた小さな命に、本来、与えられるはずだった幸せを届けたい。正しい未来を取り戻したい、そう願っているんです」
セレイエの望みは、妻との幸せな生活の続きを夢見た〈蝿〉とは異なる。
どちらがどう、ということはない。
どちらも、亡くした幸せを求めているだけだ……。
メイシアは、こみ上げてくる思いを飲み込み、〈蝿〉と対峙する。
情に流されてはいけない。
これは、〈蝿〉とメイシアの戦いなのだから――。
「あなたがおっしゃる通り、ホンシュアではライシェンの記憶を保持できません。だから、セレイエさんは亡くなる前に、別の人に預けたんです」
「ほう、別の人物に――ですか」
からかいを含んだ低音で語尾を跳ね上げ、〈蝿〉は尋ねる。
「確かに、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉なら、大手を振るって王宮に出入りできます。王族の血を引く者との接触も可能でしょう。――しかし、ライシェンが殺されたあとの鷹刀セレイエは、王宮のお尋ね者だったのではないですか? いったい誰に、ライシェンの記憶を預けるというのです?」
当然の質問に、メイシアの心臓が高鳴った。
胸の奥が熱くなる。
その名前は、とてもとても大切なもの――。
「ルイフォン」
「!」
〈蝿〉の眉がぴくりと上がった。
「セレイエさんは、ルイフォンに――彼女と同じく、わずかながらですが王族の血を引く異父弟に……、ライシェンの記憶を預けたんです。王宮とは無関係な異父弟のところなら安全だろう、と」
これこそが、ルイフォンが『デヴァイン・シンフォニア計画』に深く関わることになった理由。
ルイフォンは気づいていないけれど、彼の中に『ライシェン』が眠っている。
少女娼婦スーリンが目撃した、あのとき。セレイエは、異父弟にライシェンの記憶を預けたのだ。
「セレイエさんは、もういないんです。……ルイフォンに会ったあと、彼女は亡くなりました」
〈蝿〉の顔色が変わった。メイシアの弁を信じたのだ。
脅える自分を奮い立たせ、彼女は毅然と告げる。
「〈蝿〉、セレイエさんが亡くなっている以上、あなたは私と取り引きするしかありません」
彼は沈黙したまま、瞳だけをぎろりとメイシアに向けた。
メイシアは悲鳴をこらえ、懸命に訴える。
「おっしゃる通り、私は〈天使〉になるのは怖いですし、あなたも私が〈天使〉になることを望まない。ならば、どうしたら互いの利益になるのか、少し落ち着いて考えましょう」
答えは出なくていいのだ。
とにかく、この場を乗り切り、展望室に戻ることができれば……。
「小娘……」
地を轟かせるような〈蝿〉の声が研究室を揺らした。
「つまり、あなたは、鷹刀セレイエの行方を必死に求める私を、ずっと影で嘲笑っていた――ということですね!」
「――!?」
閃光の速さで、白衣の腕が、長い指先が伸ばされた。
身構える間もなく、メイシアは白い小首を〈蝿〉に絞め上げられた。
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