第5話 幽明の狭間に落つる慟哭(7)

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第5話 幽明の狭間に落つる慟哭(7)

 メイシアが〈(ムスカ)〉の地下研究室で『ライシェン』と対面している、その時刻。  リュイセンは割り当てられた自室でひとり、思索にふけっていた。 『この手の話の定石だとは思いますが、もしも私が死ぬようなことがあれば、〈ベラドンナ〉のもとに彼女の『秘密』がもたらされるよう、仕掛けをしてあります』  だから私を害そうなどと、ゆめゆめ考えることのなきよう……。  耳に蘇る、聞き慣れた低音は、あからさまな牽制。  一族特有の声質でありながら誰のものとも違う、ねっとりとした響きがリュイセンに絡みつき、彼の自由を奪った。  リュイセンとて、〈(ムスカ)〉の脅迫を頭から信じたわけではない。彼の持つ野生の勘は、五分の確率だと告げた。 〈(ムスカ)〉の弁が本当である確率が半分。ハッタリである確率が半分。  しかし、半々では身動きを取れない。  だから昨晩、リュイセンは〈(ムスカ)〉に問うたのだ。 『そんなに『死』が怖いのかよ? 死んだら何もかもなくなると、恐れているのか?』  対して、〈(ムスカ)〉はこう答えた。 『死んだあとのことなど、どうでもよいことですよ。考える価値もありません。大切なのは、生きていることなのですから』  聞いた瞬間、リュイセンは天啓を得た。 『死んだあとのことなど、どうでもよい』――すなわち〈(ムスカ)〉は、自分の死後の現世に、興味がない。  リュイセンの脳裏で、確率の天秤が、ぐらりと音を立てて傾いた。  ――ハッタリだ……。  無論、常人であれば、この程度の台詞から確信に至るのは早急であろう。しかしリュイセンには天性の直感がある。細かな理屈などは一足飛びに捨て置き、彼は本質を見抜き、真理へとたどり着く。 〈(ムスカ)〉を殺す。  決意を胸に虚空を仰げば、黄金比の美貌から表情が消えた。無慈悲な機械人形が如き瞳には、冷徹な光が浮かぶ。 〈(ムスカ)〉がこの世から失せれば、ミンウェイを脅かすものはなくなる。彼女は安心して、穏やかな日常を過ごすことができる。  ミンウェイの幸せを守るために。 〈(ムスカ)〉を亡き者にするのだ。  それからタオロンに頼んで、メイシアをルイフォンのもとに帰す。  そして――。  ミンウェイの『秘密』をなかったことにするために、それを知るリュイセンは姿を消す……。  リュイセンは壁にもたれ、思考を巡らせる。 「ミンウェイ……」  その名を呟いた途端、無機質な氷と化していたはずのリュイセンの面差しが、ふわりと解けた。口元に柔らかな微笑が浮かび、双眸に切なげな光が灯る。  心の一部をどこかに置き去りにしてきてしまったミンウェイ。  無防備で、不安定で、危うい、大切な(ひと)。  彼女の欠けた心を埋めてあげるのだと、幼き日に誓った。  守ってあげるのだ――と。 「俺は、ミンウェイを守る」  どんなことをしてでも。  たとえ、二度と逢うことは叶わなくとも……。 「…………」  雑念を振り払うように首を振ると、肩の上で(そろ)えられた黒髪がさらさらと哀しげな音を立てながら流れた。  昼が近づき、リュイセンは地下へと向かう。朝、〈(ムスカ)〉のもとに送ったメイシアを迎えに行き、彼女が起居する展望室に連れて帰るという、日課のためである。  地下研究室で何が行われているのか、詳しいことをリュイセンは知らない。初めは、メイシアの身に何か危険があるのではないかと、ひやひやしていたのだが、一週間は問題ないのだと彼女から聞いた。  ――だから、その間に〈(ムスカ)〉を殺す。  今日か、明日か……。  刀は取り上げられてしまっているが、管理しているのは〈(ムスカ)〉ではなく部下の私兵だ。奪い返すことなど、造作もない。私兵ごときなら素手で黙らせる自信はある。  そんなことをつらつらと考えながら、リュイセンは廊下を歩く。  生真面目な性格上、彼は時間に余裕を持って行動する。だからいつも、かなり早くに到着して、扉の前で待っているのだ。  研究室と廊下は丈夫な扉で隔てられており、中の様子は、ほとんど読み取れない。ただ、メイシアが出てくる少し前になると、決まって〈(ムスカ)〉が嫌味を言うような気配を感じる。  しかし、今日は違った。  リュイセンが地下に降り立った瞬間、肌を刺すような予感がした。気のせいであってほしいと願いながら、彼は足早に通路を駆け抜ける。  そして、扉の前に着いたとき、それは現実に変わった。  漏れ聞こえる、〈(ムスカ)〉とメイシアの言い争うような声。飛びつくように扉に耳を付ければ、『小娘……』という〈(ムスカ)〉の轟くような怒号が、振動となって伝わってくる。 『つまり、あなたは……、……私を、ずっと影で嘲笑(あざわら)っていた――ということですね!』  言葉の端々までは、正確には聞き取れない。しかし、ただならぬ様子は明らか――。  刹那、椅子が倒れるような音が響き、間髪を()れず、メイシアの苦しげなうめきがリュイセンの耳朶を打った。 「――!」  メイシアが危ない――!  止めなければ――と、リュイセンの体は瞬時に動いた。  扉には鍵が掛かっている。秘密の地下研究室なのだから、当然だ。  だから彼は、蹴破ろうと身を翻した。  助走をつけ……、そこではっと、我に返る。  彼が如何(いか)な武の達人でも、この頑丈な扉を壊せるわけがない。頭を使うのだ。――ルイフォンのように。  そのとき、リュイセンの脳裏にルイフォンの言葉が蘇った。  それは、ハオリュウの車に隠れ、初めてこの館に侵入したときのもの。  ルイフォンは、敵地に乗り込むハオリュウを案じ、万一のときには小火(ぼや)騒ぎを起こすと言った。それからリュイセンへの指示として、こう付け加えたのだ。 『お前は非常ベルを押してくれ。混乱に乗じて助けに行く』  ――非常ベルだ!  確か、地下に降りる階段の脇にあった。  リュイセンは、全力で通路を戻る。小火(ぼや)まで起こせなくとも警報が鳴れば、さすがの〈(ムスカ)〉も研究室から出てくるはずだ――!  けたたましい警報音が響き渡った。  私兵たちが次々に廊下に飛び出し、何ごとかと右往左往する。その気配を尻目に、リュイセンは再び地下通路を走り抜け、研究室の前に戻ってきた。 「〈(ムスカ)〉! 火事だ!」  どんどんどんどん……。  リュイセンは力いっぱい、扉を叩く。  非常ベルの音は、研究室の中にまで届いていたのだろう。リュイセンが叫ぶまでもなく、〈(ムスカ)〉は外に出ようとしていたらしい。――そんなタイミングで、扉が開かれた。  暗い地下通路に、部屋の明かりが差し込んだ。  逆光に沈んだ〈(ムスカ)〉の姿が幽鬼のように浮かび上がる。しかし、リュイセンは構わずに室内に目を走らせた。 「メイシア!」  硬質な白い床に、長い黒絹の髪が広がっていた。(まぶた)を閉じ、仰向けに倒れた顔は蒼白で、喉元には締められたような指の跡がくっきりと赤く残っている。  リュイセンは、取っ手を掴んだままの〈(ムスカ)〉を突き飛ばし、メイシアのもとへ駆け寄った。 「メイシア! 大丈夫か!」  膝を付き、そっと体を起こす。彼女は小さく咳き込んで、やがて薄目を開けた。 「リュイセン……?」 「メイシア! よかった……」  苦しげではあるが、ちゃんと意識がある。リュイセンは、ほっと胸を撫で下ろす。  と同時に、ゆっくりと近づいてくる白衣の影が、彼らのそばまで伸びてきた。黒い陰りに呑まれるよりも先に、リュイセンはメイシアを庇うように立ち上がる。 〈(ムスカ)〉とメイシアの間で、何があったのかは分からない。けれど、〈(ムスカ)〉が非道を働いた。そのことに間違いはない。  ――この男は『悪』だ。滅ぼすべき相手だ。  ミンウェイを不幸に陥れ、メイシアにも危害を及ぼす。  (つや)やかな黒髪を逆立たせ、若き狼が牙をむく。  愛刀を取り戻してから〈(ムスカ)〉と対峙するつもりだった。  敵の本拠地ともいえる、この研究室では、どんな不測の事態が起こるか分からない。得体のしれない薬物でも持ち出されたら、一瞬にして不利になるだろう。  しかし、ここで見過ごすなどあり得ない。  素手でいい。〈(ムスカ)〉を(くび)り殺す。
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