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第5話 幽明の狭間に落つる慟哭(8)
リュイセンの殺気が膨れ上がった。
重心を移し、まさに飛びかかろうとした――その瞬間だった。
「ほう……」
よく通る〈蝿〉の低音が機先を制した。
揶揄するような、尻上がりの軽い響き。――しかし、研ぎ澄まされすぎたリュイセンの神経には、充分すぎるほどの妨害だった。
「――っ!」
リュイセンは、たたらを踏む。
「なるほど。非常ベルを鳴らしたのは、あなたというわけですね」
リュイセンから発せられる、魂が凍りつきそうなほどの殺気を浴びながらも、〈蝿〉はいつもと変わらぬ調子で嗤った。そして、あろうことか、リュイセンの脇を平然とすり抜け、床にうずくまるメイシアのそばにしゃがみ込んだのだ。
「〈蝿〉!?」
リュイセンが慌てて振り返ると、〈蝿〉は後ずさるメイシアの手首を強引に取り、彼女の脈をとっていた。どうやら医者として容態を診ているらしい。
白衣の背中が、無防備に晒されている。
しかし、リュイセンは拳を握りしめ、その手を力なく下ろした。
今ここでやりあえば、確実にメイシアを巻き込む。〈蝿〉はそれを示唆したのだ。
「特に異常はありません。――私としたことが、つい話に夢中になってしまいましたね」
〈蝿〉は悪びれもせずにメイシアにそう言うと、すっと立ち上がり、リュイセンを睥睨した。
反射的に身構えたリュイセンに、〈蝿〉は不気味な嗤いを漏らす。
……だがそれは、実のところ、〈蝿〉の虚勢だった。
扉を開けた瞬間に、〈蝿〉はリュイセンが何をしたのかを理解した。だから、リュイセンが次に取る行動を容易に想像できた。
すなわち。
倒れているメイシアを見れば、リュイセンは激昂する。そして、〈蝿〉に敵意を――否、殺意を抱く。
メイシアに危害が加えられただけなら、殺意に至るまでの憎悪にはならないだろう。しかし、〈ベラドンナ〉に愛を注いでいるリュイセンは、もともと〈蝿〉が憎くてたまらない。〈蝿〉に脅迫されていることを忘れ、一時的に箍が外れても不思議ではない。
リュイセンが本気で歯向かえば、〈蝿〉にまず勝ち目はない。
だから〈蝿〉は、リュイセンの殺意を削ぐべく、動じない態度という先手を打ったのだ。リュイセンの熱い血も、機を逃せば冷めるだろう。何しろ〈蝿〉には、〈ベラドンナ〉の『秘密』という盾があるのだから――と。
――しかし。
リュイセンに対しては冷静に対処できる〈蝿〉も、自分自身の感情に関しては違っていた。
内心では、必死に動揺を隠していた。
正直なところ、彼は非常ベルの音に救われたと思っていたのだ。
『鷹刀セレイエ』の記憶を持つメイシアは、絶対に手放してはならない切り札。もしも怒りに身を任せ、衝動で殺していたら、彼は大事な手札を失うところだった。自分の落ち度で取り返しのつかない事態となれば、悔やんでも悔やみきれない。
リュイセンの邪魔が、結果として役に立ったからだろう。いつもなら楯突くような真似をした相手を決して許さない〈蝿〉が、リュイセンを軽くいなしただけで、報復を忘れていた。――そのくらい動転していたのである。
「もう昼ですか」
まるで世間話のような調子で発した言葉の裏に、〈蝿〉は『命拾いしましたね』という、メイシアへの嫌味を含ませる。
勿論、そんなことはリュイセンには分からない。
ただ、ともかくメイシアを安全なところに連れて行くべきだと、彼は思った。〈蝿〉の首級は、おあずけだ。
「小娘。あなたが話したことについて、私は冷静に考える必要がありそうです。……続きは明日にしましょう」
視線を下げ、まだ床に座り込んだままのメイシアへと〈蝿〉が声を掛ける。
その際、向き合って立っていたリュイセンには、〈蝿〉の眉間に刻まれた皺が妙にくっきりと見えた。色あせた白髪頭も精彩を欠き、随分と弱気な〈蝿〉に彼は首をかしげる。
しかし、そんな疑問は、〈蝿〉の次の台詞を聞いた瞬間に、どうでもよくなった。
「……ミンウェイの記憶を手に入れたとしても、それは彼女が亡くなったときの年齢のもの――また二十歳にもならない少女のものなのですよ。その記憶を、そこの硝子ケースの『ミンウェイ』に入れるなど、酷いことです」
「……っ!」
メイシアが鋭く息を呑んだ。細い指が口元を押さえるが、体は小刻みに震え、黒曜石の瞳が罪悪感に染まる。
「――だからといって、その記憶のために新しく若い肉体を作ったとして……、二十歳にもならない娘に、この老いた肉体の私のそばにいてくれ、と言うのですか……?」
静かに吐き出された言葉は、慟哭の裏返し……。
「続きは明日です。――出ていってください」
念を押すように繰り返し、〈蝿〉は白衣を翻しながら研究室の奥へと歩いていく。その先の衝立の向こうに『ミンウェイ』がいる。リュイセンは、そう察した。
そして、そのとき。
リュイセンは……苛立ちを――怒りを覚えていた。
〈蝿〉が、この研究室でメイシアに何をさせようとしているのかは分からない。
しかし、今の〈蝿〉の言動は、亡くした妻への深い想いだ。
『娘』のミンウェイを、さんざん妻の代わりにしておきながら、それでも〈蝿〉は永遠に妻を想い続けるのだ。
――許せねぇ……。
「リュイセン……?」
ぎこちなく立ち上がったメイシアが、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
「あ、ああ……、いや……」
リュイセンは奥歯を噛み、ぐっとこらえる。
今はまだ、動くべきときではない。夜だ。
今宵――。
就寝のために、この研究室を出たときが奴の最期だ。
「メイシア、行こう」
ここに長居をする理由はない。彼はメイシアを伴い、部屋を出た。
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