第5話 幽明の狭間に落つる慟哭(9)

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第5話 幽明の狭間に落つる慟哭(9)

 研究室の扉を開くと、真っ暗な地下通路が広がった。  闇に沈むような空間に向かって、メイシアは、ふらつく足で転げるように身を躍らせる。  背後で、重い音を立てながら扉が閉まった。その音が石造りの壁に反響し、振動が空気を伝って彼女の肌を撫でた。 「……っ」  かくっ、と。足の力が抜けた。  メイシアは、へなへなとその場に崩れ落ちる。  部屋からの光は完全に遮断され、一面の漆黒の世界。だがそれは〈(ムスカ)〉と隔てられた証拠であり、彼女は恐怖どころか、安らぎを覚えた。まるで『悪魔』が封印されたかのように安堵したのだ。 「大丈夫か?」  頭上から、リュイセンの声が降りてきた。夜目が効く彼には、彼女がへたり込んでいる姿が見えているのだろう。  人の動く気配がして、やがて、あたりが明るくなる。リュイセンが電灯を点けてくれたのだ。  メイシアは立ち上がろうとして、しかし、動けなかった。今ごろになって、全身が激しく震えていた。 「メイシア?」 「リュイセン……、ありがとう……」  もう少しで、〈(ムスカ)〉に絞め殺されるところだった。リュイセンが助けてくれなければ、命はなかった。  二度と再び、ルイフォンに逢えないところだった……。 「――っ」  ルイフォンを心に想い描いた瞬間、黒曜石の瞳から、はらりとひと筋、涙がこぼれた。  彼がここに居たら、きっと強く抱きしめてくれたに違いない。彼女の髪をくしゃりと撫で、優しいテノールで『怖かったな』と包み込んでくれたことだろう。――そう、思ってしまった。  胸が苦しい。喉が熱い。  涙は、堰を切ったように次から次へとあふれてきた。止めたいのに止まらない。メイシアは、嗚咽を殺して泣きじゃくる。 「お、おい……、メイシア……」  リュイセンがうろたえ、彼の影が戸惑いに揺れ動いた。 「ご、ごめんなさい」  メイシアは慌てて顔を拭う。  そうだ、泣いている場合ではない。  危機は去ったのだ。経緯は最悪だったかもしれないが、狙い通りに、〈(ムスカ)〉に『考えさせてほしい』と言わせることができた。明日までという期限が守られる保証はなくとも、少なくとも、ルイフォンと連絡を取るくらいの時間は稼げたはずだ。  だから、まずは立ち上がり、携帯端末のある展望室に戻る――。  気持ちを入れ替えると、意外なほどに滑らかに体が動いた。リュイセンがほっと息をつき、「行くぞ」と歩き始める。  リュイセンの広い背中を追いながら、メイシアは徐々に冷静になってきた。  今までは、一週間が過ぎるまで、メイシアの身に危険はないと考えていた。だから、その間に、リュイセンを〈(ムスカ)〉の支配から解放する予定だった。そして、〈(ムスカ)〉の首級(くび)を手柄に、リュイセンが一族に戻れるように、と――言い方は悪いが、お膳立ての準備をしていた。  しかし、状況が変わった以上、今は一刻も早く〈(ムスカ)〉の息の根を止めるべきだ。したがって、次に〈(ムスカ)〉が研究室から出てきたときに、タオロンに仕留めてもらうことになるだろう。  おそらくは、今夜――。 「……っ」  リュイセンの後ろ姿を見つめるメイシアの目が、悲痛に歪んだ。  タオロンに暗殺を依頼すれば、リュイセンが再び鷹刀一族を名乗る道は閉ざされる。 〈(ムスカ)〉がいなくなり、リュイセンがこの庭園に(とど)まる理由がなくなったとき、彼は速やかに誰も知らない何処(いずこ)かに去っていくことだろう。高潔であるがゆえ、裏切ってしまった一族のもとへは決して姿を現すまい。事実上の永久(とわ)の別れだ。  ――嫌だ。  メイシアは奥歯を噛み、潤みそうになった黒曜石の瞳に力を込めた。  目の前には、リュイセンのすらりと伸びた背と、迷わずに前へと突き進む手足。あたかも、彼の性格を表しているかのような――。  そう。  彼はただ、ミンウェイのためを想ってまっすぐに行動しただけだ。  彼の気持ちを利用する〈(ムスカ)〉に、抗えなかっただけだ。  リュイセンを見捨てるような真似はしたくない……。  ふと。  メイシアは思った。  リュイセンに、すべてを打ち明けては駄目だろうか。  ルイフォンは、ミンウェイが母親のクローンだという確たる証拠を示した上で、リュイセンに〈(ムスカ)〉暗殺を持ちかけると言っている。そうでもしなければ、リュイセンは頑なにミンウェイの『秘密』を認めないであろうから、と。  だが寸刻を争う事態なら、何はともあれ、リュイセンと腹を割って話すべきではないだろうか。もしかしたら証拠などなくとも、リュイセンは、こちらの手を取ってくれるかもしれない。その可能性に賭けたい。  今までのルイフォンの苦労を無にするようで申し訳ないが、リュイセンを失いたくないのだ。  それに、ルイフォンだって、現状を知れば同意してくれるのではないかと思う。何故なら、彼は『リュイセンを取り戻したい』と明言しているのだから。  ルイフォンに提案してみよう。  メイシアは、前を歩くリュイセンの背中をじっと見つめる。まるで、視線で彼を取り戻そうとでもするかのように。  ともかく、まずは展望室に戻り、昼食を終える。そして、ひとりきりになったら、ルイフォンと連絡を取る。リュイセンと話すのは夕食のときだ。  諦めるのはまだ早い。  メイシアは頭の中で段取りを決め、気を引き締めるべく体の芯にぐっと力を入れた。
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