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第5話 幽明の狭間に落つる慟哭(10)
展望室に着くと、リュイセンの後ろ姿がひらりと翻った。勢いよく黒髪がなびき、メイシアと正面から向き合う。
双刀の煌めきを宿したかのような双眸が、しかとメイシアを捕らえた。今までずっと、彼女の目を避けるようにしていたのが嘘のようだった。
「リュイセン……?」
急激な変化に彼女は戸惑う。
黄金比の美貌は相変わらずだが、そこには温かみの欠片もなかった。眼差しは冷たく冴え渡る氷のようで、睫毛の先までもが凍りついたかのように張り詰めている。
凄みのある美の根底にあるのは――深い憤り。
「メイシア」
「は、はい」
彼女は思わず、びくりと肩を上げた。
「お前が危険な目に遭ったのは、お前をさらってきた俺のせいだ。すまなかった」
「リュイセン!?」
頭を下げる彼に、メイシアは驚き、声を跳ね上げる。
どうやら、彼女が殺されかけたことに責任を感じ、〈蝿〉と自分自身に対して怒っているのだろう。――メイシアは、そう解釈した。
だが、それは正解ではなかった。
確かに、リュイセンの内部にはメイシアへの罪悪感が存在する。けれど彼の激情は、死んだ妻のことしか頭にない〈蝿〉に向けられていた。
詳しいことを知らないリュイセンでも、先ほどの研究室では〈蝿〉の妻の話がなされていたのだと察しがついた。そして、あのときの〈蝿〉の口ぶりは、リュイセンにしてみれば、妻を亡くした不幸な自分の運命を呪い、憐れんだ自己陶酔としか思えなかった。
『娘』のミンウェイを不幸に陥れておきながら、よくもぬけぬけと……と、リュイセンの心には嵐が吹き荒れていた。
『娘』を無理やりに妻の代わりにしておきながら、結局のところ、彼は死んだ妻を求め続ける。
『娘』には、自分だけを望むよう、支配して育てたくせに。
歪んだ世界に閉じ込められた『娘』は、服毒自殺を試みるまでに追い詰められたというのに……。
リュイセンは〈蝿〉の殺害をとうに決意していたが、研究室からこの展望室に着くまでの間、〈蝿〉の言動を反芻し続け、昏い憎悪を更に腹に溜め込んでいた。
――故に。彼は抜き身の刀と化していたのだ。
勿論、メイシアは、そんなリュイセンの心情など知る由もない。だから、彼女はただ恐ろしげな雰囲気に圧倒され、困惑するばかりだった。
「リュイセン……、あのっ、ごめんなさい」
「なんで、お前が謝るんだ?」
「私が不用意に〈蝿〉を怒らせたから、あんなことになったんです」
リュイセンは自分のために怒っているのだと勘違いしているメイシアは、恐縮に身を縮こめる。
「〈蝿〉のことは許せない。けど、だからといって、私が礼儀知らずになるのは違ったんです」
〈蝿〉の妻を駆け引きに利用したのは、やはり卑劣だったと思う。メイシアにも非があるのだから、ともかくリュイセンには怒りを鎮めてほしい。――そういう思いだった。
しかし、リュイセンは、眦を吊り上げた。
「礼儀だと? 本気で言っているのか? あいつは、ミンウェイを追い詰め、死に追いやろうとした奴だぞ!」
「……え?」
突然、叫びだしたリュイセンに、メイシアは混乱した。
にわかには彼の言葉の意味を理解できず、声を失う。その間にリュイセンは、はっと我に返り、余計なことを言ったと気まずげな顔になった。
だが――。
メイシアの聡明な頭脳は、聞き流してはいけないと警告を発した。
「ミンウェイさんが殺されそうになった……? ……それはあり得ないはずです……。〈蝿〉にとって、『生』は尊いものなんですから……」
「忘れてくれ」
リュイセンは吐き捨てたが、メイシアは思考を巡らせる。
激しい違和感があった。
『生を享けた以上、生をまっとうする』――そう言って『生』に執着する〈蝿〉が、ミンウェイに『死』を与えようとすることはないはずなのだ。
「『追い詰められて』の『死』ということは……、ミンウェイさんは過去に自殺しようとした――ということですか……?」
「昼食を運んでくる!」
唐突にリュイセンが言い放ち、神速で踵を返した。
彼の荒い声が、苦しげな響きが、そして何よりも彼の態度が――メイシアの言葉は正しいと、雄弁に語っていた。それと同時に、もうこの話題に触れるなという、強い拒絶もまた。
「ご、ごめんなさい……」
リュイセンが消えたあとの扉に向かって、メイシアは謝る。
しかし――。
胸騒ぎがした。
『看過してはならない』という、奇妙な――焦燥のような、ざわついた気持ちが拭えない。
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