第9話 猛き狼の啼哭(6)

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第9話 猛き狼の啼哭(6)

「鷹刀リュイセン!」  タオロンは、勢いよく額を地面にこすりつける。 「ファンルゥのために……すまん! ありがとう、本当にありがとうよぅ……。お前は、ファンルゥの命の恩人だ」  最後のほうは涙声だ。  ファンルゥが「パパ」と駆け寄ると、彼は一度、愛娘を強く抱きしめてから、彼女を隣に座らせ、ぐいと頭を下げさせる。 「ファンルゥ。お前も、ちゃんとお礼を言うんだ!」  普段、さほど声を荒らげたりしない父の叱責に彼女はびくりと体を震わせ、けれど、リュイセンへの感謝の気持ちは彼女も同じだったので、彼女も父に倣う。ふわふわの頭が、ぴょこんと地面にくっついた。 「リュイセン! えっと……、大好き!」  タオロンの顔が凍りついた。  リュイセンは、どう反応したらよいのか分からず、目の前の父娘に交互に目をやり、視線をさまよわせる。  ともかく、タオロンが来ればファンルゥのことは心配ないだろう。  こちらから話を持ちかけなくとも、彼らはメイシアの主導で庭園を脱出する予定だ。引き止められる前に、この場を去るのが賢明だ。  そして、〈(ムスカ)〉を殺す――! 「リュイセン!」  気配を察したのだろう。タオロンの肉厚の手が、素早くリュイセンの肩を掴んだ。衝撃に背中の傷が、ずきりと痛み、思わず顔をしかめる。 「だいたいのことはルイフォンから聞いている。……皆が、お前を待っているぞ」 「!?」  リュイセンは耳を疑った。何故、タオロンがルイフォンと……? 「お前が今、〈(ムスカ)〉を狙っていることも知っている。俺はルイフォンから、お前を止めるように頼まれていて、お前を探していた」 「どういう……ことだよ……?」  自分の声が、自分のものではないように聞こえた。 「ファンルゥの部屋を出入りするお前をメイシアが見つけて、知らせを受けて飛んできた。――あとは、鷹刀の連中に聞いてほしい。俺じゃあ、詳しいことは分からねぇし、うまく説明できる自信もねぇ」  タオロンはそう言って、上空に向かって手を降る。  つられて見やれば、展望塔の最上階、展望室の窓に張りつくようにたたずむ、メイシアの影が見えた。彼女も手を振り返し、部屋の奥へと姿を消す。ほどなくして、塔の中からエレベーターの動く低い音が聞こえてきた。上階で彼女が呼んだのだろう。降りてくるつもりなのだ。  ――駄目だ。  ミンウェイを苦しめる悪魔を放置することはできない。  リュイセンがタオロンの手を振り払おうとし、タオロンがそれに抗おうとしたとき、ファンルゥが「パパ!」と叫んだ。 「リュイセンには『やること』があるの。だから、邪魔しちゃ駄目なの」  ファンルゥはタオロンの足にしがみつき、駄々をこねるように体を揺らす。 「ファンルゥ、だが、ルイフォンが……」 「大丈夫だよ、パパ! リュイセンは 『やること』が終わったら、絶対、帰ってくる。ファンルゥは知っているもん!」  彼女はリュイセンに向かって、にこりと笑う。『二度と会えない、さよなら』じゃないよね? だから、行ってきて。――まっすぐな瞳が、彼を送り出す。 「ファンルゥ……」  寄せられた全幅の信頼が、タオロンの豪腕よりも強い力でリュイセンの足を縫い止めた。彼女自身は進めと言ってくれているのに。彼の心は行かなければと思っているのに……。  愛娘の妨害に、タオロンは太い眉をしかめていたが、はっと何かを思いつき、顔を輝かせた。 「ファンルゥ、リュイセンは大怪我をしている! 怪我には治療が必要だ!」 「あー……!」  これには、ファンルゥも押し黙るしかない。  無骨なタオロンにしては、珍しく気の利いた正論を言えた。そのことにタオロン本人が、ほっとする。そして、彼はリュイセンに向かって続けた。 「リュイセン、その背に刺さった刃は、自分で手当てするのは難しいだろう。俺にやらせてくれ」 「……」  タオロンの弁は(まご)うことなく正しく、ひとつも間違っていない。  背中の刃を引き抜けば、大量出血は免れない。止血の準備を万全にした上で、治療にかかる必要がある。ひとりでは不可能とは言わないが、困難を極めるだろう。  ――しかし、〈(ムスカ)〉は今宵、仕留めなければならない。  リュイセンが拳を握りしめたとき、展望塔の中からエレベーターの到着するチャイムが聞こえた。メイシアが地上に降りてきたのだ。重たい音が響き、塔の入り口の扉が開く。 「リュイセン! ミンウェイさんが!」  携帯端末を片手に、メイシアが転がるように飛び出してきた。  そのとき、タオロンが息を呑んだ。 「そうだ、その名前だ! ルイフォンからの伝言があったんだ。すまん、忘れていた!」  タオロンは焦り、同時に、思い出せてよかったと胸を撫で下ろす。何故なら、それは先ほどの正論などよりも、よほどリュイセンを思う言葉だから……。 「『鷹刀ミンウェイという人物が、リュイセンと話をしたいと電話を待っている。だから、メイシアの部屋に行ってほしい。メイシアと鷹刀は、とっくに連携している』――だそうだ」 「――!?」  リュイセンは目を見開いた。  いったい、何がどうなっている――?  理解できない事態の連続に、頭の中が飽和する。耳鳴りがして、気が狂いそうだ。  黄金比の美貌が表情を失う。彫像のように立ち尽くすリュイセンに、メイシアが携帯端末を差し出す。 『リュイセン!』  無機質な端末から、生気に満ちた声が流れた。  忘れもしない、愛しい(ひと)の……。  緩やかに波打つ黒髪と、優しい草の香り。まっすぐに彼を見つめる切れ長の瞳が脳裏に浮かび、魂を揺さぶられる。 『お願い、話を聞いて! あなたの力が必要なの!』  別れすら告げずに彼女のそばを離れてから、いったいどのくらいの時が過ぎたのだろう。  (かつ)えていた響きを耳にしたリュイセンは、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
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