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第9話 猛き狼の啼哭(7)
淡い明かりによって、白く浮かび上がる展望塔。その入り口の草地に、リュイセンは膝から崩れ落ちた。
かくりと頭が傾ぎ、揃えられた髪が肩を撫でる。しかし、他はどこも動かない。すべての力が抜け落ちてしまったかのように。
『リュイセン?』
携帯端末から、ミンウェイの声が響く。
端末を握っている己の手の感覚はあやふやなのに、聴覚だけは鋭敏で、流れてくる彼女の声を、言葉を、吐息を、リュイセンは必死に求める。
『リュイセン、どうしたの? お願い、返事をして!』
彼女に応えなければ。
彼女が心配している。彼女が不安がっている。
柳眉を下げ、綺麗な紅の唇が震えている。――見えなくても分かる。どうか、そんな顔をしないでほしい。
「ミンウェイ……」
やっとのことで、一番、大切な言葉を口にした。
だが、それ以上の声は出ず、頭も働かない。
『リュイセン!』
彼女が、彼の名前を呼ぶ。
それだけで、幸せだと思った。
その瞬間、彼は意識を手放した。
リュイセンが再び目を開けたとき、そこはメイシアに割り当てられている、ふたつの半円形の展望室のうち、食事に使うほうの部屋だった。
すべすべとした革の感触が頬を撫でた。どうやら負傷した背中に負担が掛からないよう、ソファーの背もたれを支えにして、横向きに寝かされているらしい。
「リュイセン! よかったぁ!」
すぐそばにいたファンルゥが彼に飛びつこうとして、すんでのところで留まった。
彼女はぶんぶんと首を振り、太い眉をぎゅっと寄せる。『リュイセンは怪我人なの。そっとしておかなきゃ駄目だって、ファンルゥ、知っているもん』という意味なのだが、残念ながら、リュイセンの目には謎の行動としか映らなかった。
そんな娘の背後から、父親のタオロンがぬっと顔を出した。
「刃は抜いたぞ。幸い、後遺症が残るような部位ではなかったから、安心してくれ」
タオロンは目を細め、安堵の息を吐く。
リュイセンはゆっくりと体を起こし、自分の状況を確認した。
上半身は裸で、シーツを裂いて作ったと思しき包帯がきつく巻かれていた。体は綺麗に拭かれているものの、周りの絨毯は血の吹き出したような跡で真っ赤に染まっている。気の弱い者なら卒倒しかねない惨状だ。あの刃を引き抜けば当然だろう。
そして、血臭もさることながら、酒の匂いが鼻につき、見るからに高級そうな酒瓶が転がっている。この部屋にあった、王の秘蔵の逸品を傷の消毒に使ったのだ。置き去りにされていたのだから構わないだろうが、世界一高価な消毒薬だったに違いない。
「お前が気を失っていたのは、せいぜい三十分ほどだ。それから、塔の見張りは、縛り上げて階段に転がしておいた」
「タオロン。いろいろ、すまない。ありがとう」
「感謝するのは俺のほうだ。……よかった、本当によかった」
何かに耐えるように歯を食いしばり、タオロンは肩を震わせる。愛娘のために負傷した恩人が昏倒したのだ。さぞや責任を感じていたのだろう。
リュイセンは申し訳ない気持ちになった。
倒れたのは、どちらかというと怪我のせいではなく、心労のためだ。ミンウェイの声を聞き、張り詰めていた精神の均衡が崩れた。
リュイセンの口から、細く長い息が漏れる。
黄金比の美貌が冴え渡り、澄み切った双眸が静かに凪ぐ。
これから彼のやるべきことが、理屈ではなく、直感で浮かび上がる……。
〈蝿〉との決着は、今夜中につける。
だが、その前に、鷹刀に――ルイフォンとメイシアに、義を尽くす。
先ほど、タオロンは『メイシアと鷹刀は、とっくに連携している』と言っていた。
そして、囚われのはずのメイシアが、何故か携帯端末を持っていて、その端末がミンウェイと繋がっていた。聡明なメイシアは、水面下で着々と脱出の準備を進めていたのだ。
その計画の中には、リュイセンも含まれているのだろう。しかし、それは丁重に断らねばならない。リュイセンは道を違えたのだから。
彼は、ぐるりと瞳を巡らせ、姿の見当たらない彼女の所在をタオロンに尋ねる。
「メイシアはどこにいる?」
「向こうの部屋で、お前の着替えになりそうなものを見繕っている」
「ありがとう」
立ち上がろうとしたリュイセンを、タオロンが慌てて押し止めた。
「お前は、できるだけ体力を温存しろ! あとで動けなくなるぞ」
怒鳴りつけるような言い方にリュイセンは軽く目を見張り、それからタオロンの気遣いに相好を崩す。
「……ああ。そうだな」
ふたりとも、分かっていた。リュイセンの怪我の具合いからすれば、無理は禁物。平時であれば、しばらく安静にすべき重傷だ。
けれど、今宵は行動のとき。怪我を押してでも動かねばならぬ。
長い夜は、まだこれからなのだと、交わされた視線が暗黙の了解を成立させる。
「メイシアは俺が呼んでくる」
「すまない。……一刻も早く、鷹刀と連絡を取りたい」
「そうか」
リュイセンの言葉に、タオロンの口元が緩む。
「俺は、向こうの部屋でファンルゥを寝かしつける。メイシアがベッドを貸してくれると言っていたんでな」
だから、鷹刀の連中と腹を割って話せ。――太い眉がぐっと寄り、無言で告げる。
リュイセンは、苦い思いを呑み込んだ。
タオロンは、リュイセンが一族と和解するものだと信じている。だが、申し訳ないが、その期待には応えられないのだ……。
「タオロン、……感謝する」
「感謝ならメイシアにしてくれ。俺は彼女の指示で動いただけだ。――さっきだって、お前の傷の治療は、貴族のお嬢さんには刺激が強すぎるからと手伝いを断ったんだが、頑として譲らなくてな。蒼白になりながらも、必死に働いてくれた」
「メイシアが……。そうか、……ありがとな」
「だから、礼はメイシアに言えって」
浅黒い肌の厳つい大男は、笑うと人懐っこい童顔が際立った。
リュイセンの看病をするのだと、口を尖らせるファンルゥを抱え上げ、広い背中が去っていく。そういえば、タオロンとはいつの間に、こんなふうに口をきける間柄になったのだろうか。ずっと敵だったはずなのだが――。
「……ずっと、仲間だったのかもしれないな」
ただ、すれ違っていただけで、心は響き合っていた。
そして――。
心は深く求めながらも裏切り、二度と相まみえることはあるまいと決別した血族。
これから、彼らと対峙する。
彼らとの、最後の言葉を交わす……。
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