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第9話 猛き狼の啼哭(9)
もたらされた情報に、リュイセンは愕然とした。
彼が必死に守ろうとしていたミンウェイの『秘密』は、とっくに彼女に伝わっていた。
「俺はいったい、なんのために……」
ぽつりと呟く。乾いた笑いすらも出てこない。
余計なことをしたルイフォンに憤りを覚える。
だが、それ以上に惨めだった。
自分のすべてと引き換えにしてでも守りたかったものを、守ることができなかった。
わなわなと震える両手で、リュイセンは自分の頭を掻きむしる。いつの間にか荒くなっていた呼吸が、まるで他人のものに感じられる。
……無論、理解はしている。
ルイフォンは、リュイセンのためを思って行動したのだと。それが、リュイセンにとって如何に腹立たしいことであるかも含めて、すべて承知の上で。
「……」
リュイセンは唇を噛みしめた。口の中に血の味が広がる。
そのとき。
『リュイセン』――と。
艷やかな美声が、耳朶を打った。
はっと顔を上げると、小さな携帯端末の画面の中から、彼女が見つめている。
波打つ黒髪の絶世の美女。二度と目にすることは叶わないと思っていた愛しい女。
「ミンウェイ……」
『私の『過去』を守るために、ありがとう。……私がいつまでも、お父様に囚われていたから、あなたが苦しむことになってしまったの。――ごめんなさい』
「ミンウェイが謝る必要はない!」
彼女は何も悪くない。
すべては、あの悪魔のせいだ。
『ううん。私のせいよ』
ミンウェイが緩やかに首を振る。離れていても、草の香が漂うのが分かる。
リュイセンが重ねて『違う!』と叫ぼうとしたとき、それより早く、語勢を強めた彼女の声が響いた。
『でも、私! 結果として、自分が何者なのかを知ることができて良かったと思っているわ。だって、『過去』があやふやだったから、『現在』に引きずってしまったんだもの!』
綺麗に紅の引かれた唇が、きゅっと上がった。強気の笑顔が、輝く。
「――!?」
ミンウェイが笑っている。とても、生き生きと。
リュイセンは己の目を疑った。
あの『秘密』を知れば、彼女は傷つくものと思っていた。どうすることもできない事実に打ちひしがれ、永遠に抜け出すことのできない闇に囚われてしまうのだと信じていた。
思考が凍りついた彼に、彼女が穏やかに語りかける。
『ねぇ、リュイセン。いつだったか、あなたがお祖父様に『『過去』より『未来』のほうが大切だ』と啖呵を切ったのを覚えている?』
「あ、ああ……」
覚えている。忘れるわけがない。
一族の総帥たる祖父に、あれほど真っ向から意見を叩きつけたのは初めてだった。
あれも、ミンウェイのためだった。煮え切らない態度を取る祖父に対し、彼女を苦しめる〈蝿〉は一刻も早く捕らえるべきだと主張し、彼女の憂いを取り除こうと……。
『あなたの言う通りだと思うの。――私、ちゃんと『未来』を生きたいわ』
夢見る少女のように微笑みながら、切れ長の瞳は、あくまでも冷静に前を見据えていた。その視線に、揺らぎのない強さを感じる。
今までの彼女は、一族からの信頼の篤い、姉御肌のしっかり者だった。けれど、どこかに無理があった。誰かのために尽くさなければという、気負いがあった。
それが、目の前の彼女は、極めて自然で、そして自由だ。
『お父様とお母様の思いを知った上で、私は、『私』として、未来を生きたい』
そこでミンウェイは、言葉を一度、切る。
白い喉がこくりと動いた。唾を呑んだのだ。
『……そのために、あなたの力を貸してほしいの』
「俺の力?」
リュイセンは訝しみながら言葉を転がし、ふと思い出した。
彼が展望塔の入り口で倒れる直前にも、ミンウェイは『あなたの力が必要』と言っていた。あのときは、メイシアの脱出に協力してほしいという意味だと思ったのだが、違うのだろうか。
疑問を抱く彼に、彼女が『リュイセン』と呼びかける。
『ここから先の話は、私の我儘よ。聞いてくれるかしら?』
強気の口調は崩さず、けれど、語尾が震えている。
緊張しているのだ。
その証拠に、彼女の美貌は強張っている。不穏を感じ、リュイセンは胸騒ぎを覚える。
「俺に……、何を求める?」
彼の声もまた、緊張にかすれていた。
ミンウェイの瞳が惑うように揺れる。けれど、意を決したように紅の唇が動く。
『〈蝿〉を捕獲して、鷹刀の屋敷まで連れてきてほしいの』
「なっ……!?」
一瞬にして、リュイセンの眦が大きく吊り上がった。
「さっきのルイフォンの話では、メイシアが、セレイエの記憶を得た以上、〈蝿〉は用済みだと……!」
『間違えないで! 〈蝿〉の助命を乞うているのではないわ。最終的に〈蝿〉に与えるべきものは『死』。それは絶対の一族の意志。私も同意しているわ』
「ならば、何故……?」
『でも、その前に、私は〈蝿〉と――『お父様の記憶を持つ者』と話をしたい。きちんと向き合うことのできなかったお父様と、最後に向き合いたい。――そして、きちんと『過去』に別れを告げたい』
鮮やかな緋色の衣服を誇張するように、ミンウェイが胸を張る。
「ミンウェイ……」
『あなたが納得できないなら、今の話は取り消し! ……だって、お父様は『過去』だもの』
高い鼻梁をつんと上げ、ミンウェイがきっぱりと言い切る。
その切れ長の瞳の奥に、小さな女の子が見え隠れする。
置き去りにされたままの、過去のミンウェイ。
いつも脅えていたあの子が、はにかむように笑っていた……ような気がした。
「――――!」
『俺は、やるべきことをやるだけだ』
それが、リュイセンの口癖だ。
そして、理屈ではなく直感で、一足飛びに真理までたどり着くリュイセンには、自分のやるべきことがなんであるか理解してしまった。
「畜生……」
ミンウェイの願いは、真実の気持ちだろう。
だが、分かっている。シナリオを書いているのはルイフォンだ。あの賢い弟分は、はっきりと『俺の手を取れ!』と言ったのだから。
ルイフォンは、リュイセンの想いを踏みにじった。リュイセンの覚悟を無にした。――そのほうが、誰もが幸せになれる、正しい道だと信じたから。
すべてがお膳立てされた中で、ルイフォンの手を取るのは屈辱だ。不愉快だ。
けれど――。
リュイセンは携帯端末を覗き込み、ミンウェイの後ろに小さく映っているルイフォンの目を見た。
「〈猫〉」
どんなに悔しかろうが、どんなに情けなかろうが、ここで〈猫〉の手を取らないのは、醜悪な愚か者でしかない。
「お前の策に乗ってやる」
『リュイセン!?』
音質の悪い回線の中でも、弾かれたようなテノールがしっかりと聞こえた。
「お前が策を立て、俺が実行するのが、俺たちのやり方だ。やってやる。――俺が〈蝿〉を捕獲する」
『本当か!』
「ああ」
『お前、怪我は大丈夫なのか?』
「正直なところ、万全とは言い難い。だが、俺がやらなきゃ、筋が通らねぇだろう?」
単に〈蝿〉を捕獲するだけなら、タオロンに頼むことだってできる。だが、これはリュイセンがやるべきことだ。
ルイフォンが瞳を瞬かせ、『感謝する』と頭を下げる。
普段はいい加減なくせに、こんなときだけ礼儀正しい台詞を吐くのが、この弟分だ。
「馬鹿野郎! 感謝すべきは、俺のほうだろう!」
『ま、それもそうか』
ルイフォンが、にやりと笑う。そうだ、それでいい。
不意に、ルイフォンが真顔になった。
『けど、さすがにお前ひとりじゃ危険だから、鷹刀の総帥と〈猫〉の名において、タオロンに補佐を頼む。それは、いいよな?』
「上等だ」
リュイセンとルイフォンの、目と目が合った。
そして、どちらからともなく、笑みを浮かべる。
『リュイセン』
「なんだ?」
首をかしげたリュイセンに向かい、ルイフォンが右手の『掌』を差し出した。
リュイセンは息を呑んだ。
それは、ふたりの間で通じる、特別な儀式。
握手ではなく、『掌』と『拳』を打ち合わせ……。
――共に行こうと、相手を迎える――。
『おかえり』
抜けるような青空の笑顔で、ルイフォンがテノールを響かせる。
だからリュイセンは『拳』にした右手を、滲んだ画面に向かって突き出した。
「……ただいま」
~ 第八章 了 ~
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