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──『伸びやかな歌声』とはよく言ったもので。口ずさむそれとは違い、腹の底から叩きつけるそれとも違い。彼女の歌声はどんなに遠くてもかすかに鼓膜を撫でていく。女性にしては少し低く掠れた歌声はときに楽しげに跳ね、ときに哀切を奏で、僕の小さな世界を優しく包み込む。僕は彼女の歌声が好きだった。
「歌の巧拙よりも大事なものがある」
とある日。「歌が上手だね」と僕が褒めた時に、そう彼女が呟いていたことはいまでも忘れられない。世に満ちる歌は巧者こそがより高みへと押し上げられて多くの人々へ届けられる。平たく言えば『上手さこそ正義』。逆に言えば不協和音は誰の耳にも届くことはないのだ。
僕は歌が好きだが世辞にも上手いとは言えない、だからこそ持ち得ぬものを羨んで彼女に賞賛の言葉を投げかけた。あわよくば僕の稚拙さと精神的な未熟さを一笑に伏して「そうでしょう」とでも言ってくれたら、自分の浅ましさも少しは報われたというのに。
「持って生まれたものはあるでしょ、やっぱり」
湧き上がる羨望、嫉妬、舌に乗る苦い感情。そのとき苦し紛れにそれを吐き出してみせれば──彼女はひどく傷ついた顔をした。黒目がちな瞳をまたたかせて、薄く色づいた唇を引き結び、まるで噛み締めた奥歯の隙間から零れそうになる声を堪えているようだった。それはそれはひどく、悲しげだった。
彼女は心なしか色褪せたように見える唇を開き、閉じ、また開いて。ほんのわずかに揺れた声で呟いた。
「──なんで、そんなことを言うの。
私は、ただ君に昔みたいに──……」
昔。
──どういうことだ?
彼女と僕は出逢ってまだ数ヶ月しか経っていない。それなのに彼女が当たり前のごとく『昔』という言葉を持ち出してきたことに強い違和感を憶えた。まるで幼い頃からの知り合いのように告げられた言葉に驚きから、ゆっくりと目を見開く。
「──……っ!」
彼女も自分が口にした言葉に気づき、口元を押さえて黙り込んだ。顔色が青ざめていく。
「──どういうこと?」
僕はなるべく心配を掛けないのを心掛けながら優しく問いかけた。だが、彼女は小刻みに震えたまま動かない。薄く開いた唇からは『待って』という三文字だけがこぼれ落ちる。明らかに様子がおかしい。
もう一度、「どういうこと」と問い掛けようとした。
瞬間。
──どん、と。彼女は僕を突き飛ばして駆け出した。突然のことで驚いた僕は体勢を崩してその場に尻もちをつく。痛い。なぜ。伝わる痛みに思考が爆ぜる。だが、それよりも。そんなことよりも。
「なんで……」
僕を突き飛ばしたときの彼女は、泣いていた。
理由は分からない。だが、その涙を見たときに僕は胸が抉られる心地がした。痛い、いたい。心の内側にひたひたと悲しみが満ちていく。傷口を、熱を帯びたかなしみが濡らしていく。したたかに打ち付けた足腰よりも、なによりも、心が痛かった。
痛い、いたい。いたい。その言葉ばかりが脳内をめぐる──気づけばいつしか僕の頬にも、生ぬるい涙が伝っていた。
『歌を歌うのは楽しいことだよ』
『君の歌ってるときの顔、私は好きだなぁ』
『これからも聞かせてね』
……歌が無く、風ばかりが鼓膜をなぶる中。薄くうすく誰かの声がする。聞き覚えのある懐かしい声、優しい声。確か僕はこの声が大好きだったはずだ。女性にしては少し低く掠れた声。誰の声だったかな。
僕は、やさしい声に耳を澄ませる。
『君が一番幸せそうにしてるのは、やっぱり歌ってる時だねぇ。勉強をしてる時のしかめっ面よりよっぽど年相応で可愛いよ』
『無邪気さは絶対に忘れちゃならないよ。純粋さは年齢を重ねるごとにいつしか薄くなっていってしまうけれど、何かを好きだと思う無邪気さだけはいつまでも胸のなかに大切に持っておいで』
『無邪気さは自分の心の内側に住むこどものものだ。それを取り上げちゃあならないし、誰かから奪うことも誰かのものを奪われることも許されない。人の侵してはならない大切な場所だ』
『好きなものだけは捨てちゃあならない。いくつになっても大切に、大切に持っておいで』
『何かを楽しいと思える気持ちは、水さえあげたらいくつになってもすくすく伸びていく。腐らず大切に持っておくんだよ』
『──おばあちゃんとの、約束だよ』
ざあっ。
──風が足音を、歌を、攫っていく。
結局、
あの日から彼女は一度も僕の前に姿を現していない。
あれから僕はあの日の彼女に捧げる歌を歌い続ける。
好きなものを好きと言い続けるのは、簡単に見えて存外難しいものだ。追いかけていく途中で心が折れてしまうことも珍しくないだろう。
だからこそ背を伸ばして、前を向いて、笑いながら。
「僕はここに居るよ」「今でも歌が大好きだよ」と歌い続ける。
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