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3
「わたしのお師匠のところへ行きましょう。わたしが教えられるのは、こころだけですもん」
三毛猫は縁側を下り、導くように尻尾を振りながらどこかへ向かおうとする。この近くにある公園に師匠とやらがいるらしかった。
「こころというのは、心構えですか」
「そうー。伸びたい気持ちを大事にすること。自分の気持ちそのものを、大事にすること」
「……自分を大事に出来ないものは、伸びられませんか」
「伸びませんねぇ。それはいつわりの伸びです」
公園には、老いた人間や幼児と親が多かった。遊具や砂場から離れた、何らかの詩碑が木々に囲まれた場所が、三毛猫の師匠―茶虎の兄貴のねぐらだという。
「あにき、あにき。弟子が増えましたよ、教えてくださいな」
ややあって低木の茂みから出てきたのは、名前の通りの見た目をした大きめの猫だった。片前足でくるくると小さなボールを弄りながら挨拶をする。同じように返せば「弟子ねえ」と胡乱げな目を向けられた。
「上手く伸びたいとかそういう話か。子猫でもあるまいし、珍しいな」
「でも、伸びることには年齢も性別も身体つきも一切関係ないのよねぇ、お師匠」
「それはそうだ。猫であってもなくても、伸びたいならば伸びるべきだ」
茶虎はうむ、と頷くとボールに伸ばしていた前足を縮こめた。逆回転がかかったボールは後ろへ転がっていき、見えなくなる。
私はいつか伸びをしていた時期があっただろうか。人間の創作話では驚くほど長生きをした猫の尻尾が二股に分かれるというが、私は生まれてから今までこの姿である。化けたりなんだりやっているうちにその仕草の作法を忘れてしまった可能性もあるが、とにかくこの件に関しては先輩の意見を聞く他ない。
「狩りが得意そうな顔をしているが、腕前はどれほどだい」
「なかなかのものだと、自負していますが」
「見込みが全くない訳じゃあないね。身体を使うのが得意なのに越したことはないよ。狩りと伸びは鏡合わせのようなものだから」
なるほど、柔と剛の使い分け、緩急と言い換えても良いだろうか。そう述べれば、茶虎は嬉しそうに「そうそう!」と小さく鳴いた。
「話が早いね。狩りは好きかい?」
「いや……そこまででは」
悪さをしたり縄張りを荒らしたりするあやかしと闘うことはあるものの。それはまた狩りとは異なるだろう。
茶虎はわたしの言い淀みを気に留めず「それでも良いさ」と話を進める。
「また、狩りがジャンプだとしたら、伸びは助走や踏み切りとも言える。身体と心を整えるためのものさ」
身体だけでなく、心も整うのはなぜだろう。頭上に疑問符を浮かべたわたしに、茶虎は続ける。
「まずはリラックス、深呼吸だ」
言われるままに空気を吸い込み、吐く動作を数回繰り返す。身体の中心が温かくなっていく。四肢のすみずみまで新しい空気が行き渡っていく感覚だ。
「よし、良い調子だ。そのまま、身体じゅうの筋に集中して」
筋肉ではなく、むしろそれらをつなぐ腱を意識しろということか。私は手脚の先へやや力を込め、それぞれを前後へ大きく突き出した。そう、伸びの姿勢である。
脚から背中、腰までぐぐぐっと伸びれば、呼吸が楽になる心地がした。身体の芯にある空気の管が入れ替わったようで、四肢もふっと軽くなる。
三毛が歓声のような鳴き声を上げる。素人が初めて実践したにしては、及第点がもらえる出来ではなかろうか。
「あら、良い感じ! 黒猫さん、やるじゃない」
しかし茶虎は厳しい顔で「まだまだだ」と言った。
「だけどお師匠。すごく綺麗な伸びだったでしょ?」
「確かにな。でも、綺麗なだけが真の伸びじゃない」
私と三毛に向かって、茶虎は「こんな風に」と伸びをしてみせた。美しさがあり、また、これぞ茶虎の伸びだ、と思わせるしなやかさと力強さを兼ね備えた仕草だった。見ただけでどういった気質を持っているのか、どういった思考を持っているかが分かるような。
「個性を持たせる、のですか」
「いいや、それが目的なのではなくてね」
茶虎は姿勢を戻し私に真っすぐ向き直る。
「個性は副産物と言うか、後からついてくるものなんだ。伸びるときには無心でいるのを忘れちゃいけないのさ。その方が余計な力を入れずに済むし、真の伸びへ近付ける。だけどあなたはそうではなく、何か、思うところがあるように見えるんだ」
どきり、と心臓が跳ねたのは言うまでもない。
「厳しいことを言うが、今のままでは、真の伸びに到達できない」
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