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 夕日があかあかと燃え始めた頃着いたのは、三毛がいた民家とよく似た場所だった。背の低い花がプランターに丁寧に植えられており、盆栽の鉢が点々と置かれているのが大きな違いだろうか。また、縁側には幼児用の自転車や小さなサンダルもある。 「友人というのは、子供がいるお宅の猫ですか」 「そう。子守りもベテランよ。前はよく遊びに来ていたけれど、最近は減っちゃった」  縁側の縁へ立ち、三毛は一声にゃあと鳴いた。するとほどなくして、とす、とすという声が聞こえてきた。人間の足音にしては軽い。三毛の隣で待っていると、姿を見せたのは大きな灰色の塊だった。 「ごきげんよう、ぐーちゃん。ちょっと力になってほしいのだけれど」  灰色は身体をふるわせ、長い毛の間からオレンジ色の目をのぞかせる。この見事な体躯は長毛によるものなのか、筋骨によるものなのか。いずれにせよ貫禄を備えたぐーちゃんは「どうぞ」とゆっくり頷いた。  私はおずおずと自分の悩みを切り出した。伸びの作法を会得したいと思っていること。真の伸びに到達できないと評されたこと。 ぐーちゃんはことばの一々におごそかに頷く。私が話し終えたとき、その目は糸よりも細くなっていた。寝ているのではない。笑っているのだ。全てを許容し包み込む、大いなる存在のように。 「三毛さんが私をあなたのもとへ連れて来たということは、あなたは、伸びの何たるかをご存知なのではないですか。私は……自己矛盾のどうしようもなく深い穴にに陥ってしまいました」  自分の声が先細っていくのが分かる。情けない思いよりも、この状況を打破したい気持ちが強かった。  ぐーちゃんは目を開く。私の顔を見つめ、全身を見つめ、口を開いた。 「ぼくに言えるのはひとつ。心がかたくなれば、身体もかたくなるということ。ふたつは繋がっています。己が心を認め、ゆるし、解放すれば、望みの伸びを手に入れることができましょう」 「心を認める……?」 「こうでなくてはいけない。ああすべきだ。そうした意識は立派です。しかし、一旦忘れてみることも、また必要です」  によ、とぐーちゃんの大きな口が笑いの形に変化した。 「あなたが猫だとしても、ぼくらとことなる生き物だとしても。伸びるものならば、通じ合うものがありましょう」  私はどきりとした―この灰猫には、私の正体が分かっているのかもしれない。しかし、見破られたからといって何かが変わる訳ではないのだ。ぐーちゃんが言うように、伸びたいと思うのならば。  私は確かに愛嬌を手に入れたい。ただ順序が違っていた―茶虎が、個性とは自ずと出てくるものと言っていたように。  愛嬌、愛らしさは、欲しいと願って手に入るものではないのだろう。自然と湧き出るものを、自分以外のものがそれと捉えるのみなのだ。  ようやく、皆の心持ちが理解できたような気がする。  気負うことなく。可愛らしくなりたい、という自分の気持ちを受け入れて。規範に縛られることなく、伸びるだけ。  四肢が地面から離れていく。重力を感じないほどの開放感が全身を巡る。春の陽だまり。夏の涼風。秋の木漏れ日。冬の銀に輝く太陽―それら全てを一度に経験したように、胸がいっぱいになる。真の伸びの、なんと心地良いことか。 「そうそう、それが良いのよぅ。おめでとう、黒猫さん!」  いつの間にか閉じていた目を開くと、三毛が満面の笑みでこちらに向かって鳴いている。その隣では、大いなる灰猫が重厚な頷きを繰り返していた。 「これであなたも手に入れましたね。あなただけの、伸びを」 「ねぇ、良いもんでしょう?」 「ええ! これが真の伸びなのですね! やりました、私もこれで―」 「―……全く、探したよ」  不意に、声と共に身体が軽くなった。抱き上げられた、と振り向けば、一日振りの顔が至近距離にある。全力疾走した後のように息が上がっており、探したということばに嘘はないようだ。少し嬉しいと思う自分がいるのが、なんだかおかしい。  辺りは徐々に濃い靄に包まれる。相方の力を使えば、元の世界へ戻るのは一瞬だ。……世話になったものたちへお礼を言わずに来てしまったが。ぐーちゃんはきっと全てを分かっているし、三毛や茶虎とも、近いうちに再会できる気がしてならなかった。 「すみませんでした。困らせるつもりはなかった。ちょっと……魔が差しました」 「ううん、こっちも反省してる。きみを雑に扱っちゃってたのかもね」  相方は、未だ猫の見た目をした私を胸元に抱えた。頭の匂いを嗅ぎ、「あれ?」と首を傾げる。 「さっきの三毛猫ちゃんじゃない匂いもするけど、一体どんな家出をしたんだい?」  私はくふくふと笑ってしまう。家出か。私はただ一日中、自分に似た仲間と遊んでいた気もするけれど。 「面白かったですよ。真の伸びを手に入れる旅は」
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