その頃、日本では~side八十神は女を捨てた

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その頃、日本では~side八十神は女を捨てた

 だがきっかけはすぐ訪れた。  銀座に日本の本店があるアメリカの高級宝飾店の前を通りかかったときだ。酔って上機嫌な野口が、閉店してもまだ明るく輝いていたショーケースの中を指さして言った。 「あっ、これこれ! これなんです先輩! このお店のエタニティリング!」 「へえ。君が欲しかったのはどれなの?」 「これです。3.7ミリ幅のフルサークルの……」  フルサークル、つまりリング全面にダイヤのあるタイプだ。  野口が目を輝かせてショーケースに見入っている間に、僕は素早くスマホで該当するリングを検索した。  ――該当した指輪の値段は三百万円を超えていた。  ちょっと待て。この女、まさか御米田にプロポーズでこのクラスの指輪を求めてたってことか?  結婚指輪が給料の月額の三倍とはよく言うが、そりゃ無理があるだろう……僕たちの年齢なら年収までとは言わないが……結婚指輪だって躊躇う値段だぞ? 「あーあ。ユウキ君のばか……」  小さな呟きを僕は聞き逃さなかった。あ、もうやめよう、と思った瞬間だ。  僕はさらに素早くスマホのアプリを操作してから、彼女に声をかけた。 「穂波ちゃん。君に隠しごとはしたくないから言うね。僕、実はバンコク支社長の栄転の話、なくなったんだ」 「……え?」 「現地でトラブルがあったようで支店設立そのものが流れたらしくて」  あとはもう一気だ。この女が困惑してるうちに一気に! 「君が結婚したがってたのはわかってたけど、今のこの僕じゃ……無理だよね? 御米田から君を奪った形になっちゃったのに、……ごめん。仕事に集中したいんだ。別れてほしい。短い間だったけど楽しかったよ。じゃあ」 「ち、ちょっと待ってください!」  誰が待つか。僕は銀座通りのタクシーに素早く飛び乗って、もう窓の外は決して見ずに運転手に行き先を告げた。  先ほど操作していたのはタクシーの配車アプリだ。これはホスト時代に客や夜嬢たちと揉めたときよく使っていた手だった。  ピコン! ピコン! ピコン!  すぐスマホにメッセージが何件も入る。見なくてもわかる、野口だ。  僕はもう既読を付けることもせず、そのまま彼女をブロックした。 「……明日、出社したら揉めるかもしれないが」  あの女が僕の部署に押しかけてくる可能性は十分ある。  だが、もし一方的に別れたことを周りから非難されたら素直に言えばいい。  栄転の話がなくなったことに加え、あの女と出かけたときのあまりの遠慮のなさに逃げたのだ、と。恥ではあるが正直に言えばいい。  数回寝たのは事実だが、高級店の三百万の指輪でプロポーズされるのが当たり前だと思っている女性だった。  これは価値観が違いすぎるなと思い、傷の浅いうちに別れを選んだ、と。  女を弄んだなんだと言われても気にする必要はない。だって御米田から奪ってから今日まで、さっきのレストランだってデート代はすべて僕持ちだ。  それでもあの女が詰め寄ってくるなら、言ってやればいい。 『君だって御米田を簡単に捨てただろう?』って。  自分が同じことをされないと、なぜ思っていた?  結果からいえば、あの女と切れるまでは本当に面倒くさかった。  予想通り別れることに納得しなかった野口は、社内で僕を見かけるたびに詰め寄ってきては人目を気にせず罵ってきた。  ……僕は反論を一切しなかった。ただひたすら下手に出て、相手に謝るだけ。  女は感情優位の生き物が多い。ましてや彼女みたいなタイプに理知的に反論したり、諭したりなどは悪手になる。 「あんな一方的に別れるだなんて! 先輩、酷いです! 人でなし!」 「穂波ちゃん、ごめんね。どれだけ俺を詰ってくれても構わない。悪いのは俺だから。でも君とはもう無理だ」  と言うべきところはキチッと譲らずにだ。  興味津々の周囲には、私事で騒いで迷惑をかけたことの謝罪と、別れることになった経緯をありのままに説明すれば大半は納得して僕の味方に回ってくれた。  そりゃあな。ディナーで一本一万のワインを自分一人で二本空けてビタ一文出しやしない女はそりゃ引かれる。 「御米田……悪かったよ。コンペも女も、あんなやり方で奪う必要はなかった。僕が悪かった」  ようやくあの女が諦めてくれたのは半月後だ。疲れきって、休憩に来た社内のカフェスペースで僕は呟いた。  明らかに運気が下り坂だ。どこか厄落としの寺でも行くべきか。成田山とか高尾山とか……  だが後悔するぐらいなら、やらなきゃよかったんだ。正直、コンペ関係での僕はまともではなかった。  僕はスマホから消すに消せない、退職後の御米田から来たメッセージを見返した。  メッセージは二通ある。 『お前の悪事は必ずバレる。  俺のIDとパスワードで不法ログインして企画書データを盗み、証拠隠滅のためにデータを削除したことを知っている。』 『俺が辞めたからって、お前の罪が消えるわけじゃない。くたばれ、パクり野郎』  その後、僕から御米田に適当なスタンプを送ってみたが既読は付かなかった。どうやらブロックされたらしい。  最初にこのメッセージが送られてきたときこそ震えたが、それから一ヶ月以上経っても会社では誰からも何も指摘を受けていない。  御米田、せめて退職はせず踏みとどまるべきだったな? こんなの負け犬の遠吠えだろ。  面倒な女ともようやく切れた。苛立つライバルももういない。  僕は御米田のメッセージをトークルームごと削除し、こちらからもあの男をブロックした。  ――そんな僕を、御米田の後輩が観察していたことに気づかないまま。
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