想い

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想い

女は、死の島で有名なスイスの画家、アルノルト・ベックリンの「静かな海」とそっくりな姿で横たわっていた。 「静かな海」では岩場に横たわる人魚が描かれており、側には従えるように3羽の海鳥が翼を休めている。 3羽の海鳥の内、2羽は人魚の尾の上に止まり、もう1羽は岩場に降り立ち水面を眺めていた。 腰まで伸びた赤毛を持つ人魚は、見る者を嗜むような眼差しでこちらを伺っている。私はその絵画と目の前で横たわる女とを見比べた。 生命力は確かに絵画の人魚に軍配が上がった。 だが美しさで言えば、断然、目の前の女の方が上だった。 確かにこの女は大海原を優雅に泳ぐ尾は持ち合わせていなかった。が、その代わりに両脚というものを所持していた。 その脚は大海原を泳げない代わりに、私を嘲る為に必要な道具として、その肉感的な2本の脚を存分に使用してくれていた。 尚且つ女にはその両の脚の間に人魚には持ち得ない陰毛と生殖器があった。 今宵もその陰毛は海原を薙ぐ風のように瑞々しく、幾度となく私の前で優雅に舞った。 そう。まさに今、私が眺めている姿のままで。 ただ、残念な事に女は過ちを犯してしまった。 地に在りながら、自分には尾ががあると勘違いしたようだった。 自分ならどんな場所にいようが、どこまでも泳げると過信したのであろう。否、翼でもあると思ったのかも知れぬ。 だが、その過信は女として生きる上では必要不可欠な要素だった。過信のない女からは、美しさの欠片さえ、私は見出す事は出来はしない。 私は絵画を持ったままロッキングチェアから立ち上がった。四面一帯スカイブルーに施された壁にベックリンの絵画を裏面にして立て掛ける。 その後で、私はイーゼルから描きかけの女の絵を無造作に取るとその場で破り捨てた。 絵の具の片付けを終え私は横たわる女の側に屈み込んだ。 今宵、女がここに来る事は店側の人間は百も承知だ。 女を送り届けたドライバーも、私の家の側で、送迎車を待機させているかも知れない。 女の知人や友人も今夜、私の家に行く事を聞いているかも知れない。 もしこのまま女が戻らないとなれば、確実に私に疑いの目が向くのは明らかだった。 「異常に金払いが良くてチップも沢山くれる世捨て人のようなお爺ちゃんがいるのよ」 何度目かの指名の時だった。私が紅茶を入れに部屋を出た直ぐ後に、女はそのような事を誰かに話していた。 私は何もその事に怒ったわけではない。女のつくバレバレの嘘で余分な金銭を要求された事に辟易したわけでもない。 ただ今宵の女は頑なにハイヒールを脱いでくれなかったのだ。私が望む素足にはなってくれなかった。 人魚にハイヒールなど必要ないのに女はそれを、それくらいの事もわかっていなかったのだ。 幾度となく私の下へ呼んだにも関わらず、女は私の事を何一つ理解していなかった。自らの新たな試みに心を囚われ過ぎてしまっていたのだろう。 その為、女はこのような老人の些細な願いさえ踏み躙る事となった。それは、相応の罰を受けるに足りる行いせのものだった。 私は閉じかけた女の瞼を押し開いた。ヨレヨレのブリーフ姿を再度、女の目に焼き付けておきたかった。 女の唇の端から血が流れ落ちている。 喉にはペインティングナイフが突き刺さっていた。 私はブリーフを脱ぎ、女と同じ姿となった。 怒りに任せ、女の足から剥ぎ取ったハイヒールが部屋の隅に転がっている。 「大事なのは君がどう思うかではない。私がどう感じるかが、ここでは1番に守られるべき事だったのだ」 いつもであれば素足で踏まれる筈の顔も、ハイヒールのお陰で全て台無しになった。 だから私は女の足首を掴み、引き倒し、その足からハイヒールを奪った。 ヒステリックに奇声をあげながら、2足のハイヒールを床に叩きつけた私は、確かにそのように言った筈だった。 「ごめんなさい」 聞き間違いではなかった。わかっていた。 女が反省している事くらい老いぼれでも理解出来ていた。 だがその言葉が、私の収まり切らない怒りという感情を更に煽ったのだった。 「どうして謝る?」 ハイヒールを叩きつけた私は、単に癇癪を起こし手足をバタつかせる駄々っ子のようなものだった。 そのような精神状態だった私の気持ちなど無視して、裸足で私を踏み付け嘲笑すれば良かったのだ。だが女はそうしなかった。金づるに嫌われる事を恐れたからだろう。 その時の女には、私が好む人魚的な美しさは欠片もなかった。 泰然自若な姿勢を崩さず、悠然と海原を見下ろすそんな真の強さを持った女はそこにはいなかった。 気づけば私はペインティングナイフを掴み女の喉笛へと突き立てていた。 捕まる事を恐れているわけではない。 女という美しい生き物へ、過信する大切さを伝えられなくなった事が、ただただ恐ろしいのだ。 私は再びイーゼルと絵の具を用意した。 ロッキングチェアに座り横たわる女の裸体を見つめた。 構図を思い浮かべ顔の前で筆を立て片目を閉じる。 そして私の人魚が四方をスカイブルーで彩られた海の中で泳ぎ出す姿を思い浮かべた。 「あぁ。なんという事だ」 私の中に生まれた女を見て思わず頭を掻きむしった。 私は力任せに絵筆を折り、2本になった絵筆を力の限り自分の首へと突き刺した。 目玉が飛び出るほどの痛みが脳を貫いた。心臓が激しく鼓動を打つ。鈍痛が全身へと広がる中、私は ロッキングチェアから立ち上がった。 直ぐに膝が折れて前のめりに倒れた。私は絵筆と弛んだ首筋の皺の隙間から流れる血をそのままに、必死に女の側へと這って行った。徐々に視界が霞んでいく。女を認められない恐怖に苛まれながら、私は残った力を振り絞り女へと手をを伸ばした。 折り重なるように裸の女を抱きしめた私は、 赤毛の髪に顔を押し当てた。 消えかかった命の灯火の中で、私は今だからこそ、女に伝えなければと思った。私の想いは例え死を迎えた者であろうと、届けられると感じていた。 自らの命を代償とした私であるからこそ、それを伝える事が許されると思った。権利は充分あった筈だった。 それは今、この瞬間にあってこそ、悟ったたった1つの私の答えだった。それを伝えるに相応しい女はこの世界でただ1人だった。 「どうやら私は君を心から愛していたようだ。私が生涯を賭して愛し続けていた人魚以上に君を…愛してしまったよう…」 私は女の身体の上で弱々しい鼓動の波に揺られていた。 弱々しい呼吸の音が、海風のように私の首からヒューヒューと漏れていた。 そんな私は、まるで「静かな海」に描かれた、人魚に付き従う3羽の海鳥のようだった。
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