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サイラスの屋敷に勝手に張っておいた結界が反応したのは夕方のことだった。
この結界が反応するように設定しておいたのはたった一人だけだ。その人物が結界を通過するとこちらに知らせが来る。
借りた客室のベッドに寝ころんでいた俺が慌てて飛び起きると、クリーム色のクッションがマットレスの上をころっと転がった。
自室から持って来たあのクッションだ。一人でベッドに寝転がっていると隙間風が吹いてくるようで寒い気がして、魔術で転移させてきた。
いや、今はクッションのことなどどうでもいい。
慌てて魔術で球を作って、そこに玄関の映像を映し出す。
そこにはフレンの姿があった。しかもたった一人で!
俺の言いつけを破ってここに来たのか!?
「わ……、き、来た! 本当に来た!」
そわそわするこの気持ちは、嬉しいのか不安なのか自分でもよく分からない。
咄嗟にエギルに声を掛けようとして、ここにはいないことに気付いた。
「ぼく、お世話になっているからいっぱいお手伝いするです! いつフレンさまが来てもいいようにお部屋中をピカピカにするです!」
エギルはフレンがここに来ると信じ切っている。とても張り切った様子で部屋を飛び出して行ったので、当分戻って来ないだろう。
そういえばフレンがここに来ても追い返せとは伝えていなかった。恐らくサイラスの奴は屋敷の中にフレンを招き入れるに違いない。
今から部屋の外にエギルを探しに行ったら、屋敷に入って来たフレンと鉢合わせしてしまう。
「ど、どうする。どうすればいい!?」
うろうろと部屋の中を歩き回る。
「そうだ、部屋に結界を張らないと。そうそう破れないような頑丈なやつだ!」
屋敷の前に張っておいた結界とは違い、人が入って来られないような本気のやつだ。魔力の消費は激しいが、部屋の扉に張るぐらいなら問題ない。
「急がないと……!」
しかし焦っているとロクなことにならない。
この俺が、あろうことか魔術を失敗してしまったのだ。
あり得ない事態に呆然とする。
強力な結界を張るつもりが、いざこの部屋に張られたものは『ほどほどの結界』だった。
何だこのいかにも破ってくれとでもいうような結界は!
こんな結界を他人が張っていたら、中にあるものを守りたいのか守りたくないのかハッキリしろ未熟者が、と悪態をついているような出来だ。
「うわあああ」
結界の張り直しだ、急いでしなければ!
扉の前であたふたとしていると、こちらの部屋の前にどんどん近づいて来る足音が聞こえてきた。
フレンだ、間違いない。
心臓がバクバクと激しく鳴る。声なき悲鳴を上げて扉の前で立ち尽くした。
「エーティア様、こちらにおられますね。あなたと話がしたい。扉を開けてください」
普段の柔らかなものではなく、硬い声だった。
扉を挟んでフレンと向かい合う。たった一日ぶりだというのに、もうずっと長い間離れていたような気がする。
「どうしてここに来たんだ!? お前にはイライナに付き添うよう命令していたはずだ」
焦る心情とは裏腹に自分の口から出てきたのは冷え冷えとした声だった。
「それは出来ません」
しかし返って来たのは拒絶の言葉だった。
「な、何っ!?」
フレンの反抗的態度にびっくりする。
「シュカル皇国を出るまでは止むを得ず従いましたが、俺はあなたを守る騎士であり伴侶になる者なので、これ以上あなたの命令には従えません。もう一度言います、ここを開けてください」
「嫌だ……、開けない」
「ならば押し通ります! エーティア様、扉から離れていてください」
「……は?」
バキッと音がして扉のドアノブが破壊されて、扉が開く。フレンの手に握られているのは聖剣だった。
まさかフレンがこんな乱暴な真似をするなんて!
そしてフレンはそのまま入り口に張られてある結界を聖剣で斬りつける。
その聖剣の特性は魔法を弾くもの。つまり俺のこの『ほどほどの結界』ごとき容易く破ってしまうのだった。
「俺の結界が……!」
失敗したとはいえ、それなりに力はある結界のはずだ。こんなにもあっさりと壊されるなんて、ここ最近のフレンの能力の上がり方ときたら、恐ろしいほどの勢いだ。
咄嗟にワープを発動して逃げ出そうとするが、素早く部屋に入って来たフレンによって手首を掴まれた。
「逃がしません」
扉に押し付けられてその勢いで扉が閉まり、逃げ道が無くなったことを知る。
「ひっ……う……」
フレンの唇が重なって、そこから魔力が吹きこまれた。
シュカル皇国からこれまで魔力供給なしに魔術を使い続けていたこともあり、体はフレンの魔力を強く欲していた。
「んぐ、んんっ……!」
体に縋りついてしまいたくなる気持ちをこらえて、自由になる右手でぐっと目の前の胸を押した。
こんな反撃に遭うとは思っていなかったのだろう、一瞬だけ腕を拘束する力が緩んだ。その隙を付いて逃げ出す。
だがしかしあっという間に追いつかれ、体を抱えられてベッドへと連れて行かれた。バタバタ足を振り上げて暴れ、もつれあうようにして倒れ込み、二人分の体重でマットレスが沈み込む。
こちらに覆いかぶさって見つめてくるフレンの瞳には、苛立ちと深い執着の色が浮かんでいた。普段の穏やかさの陰に隠されている感情だ。
ゾクゾクと背筋が震える。
「何故俺を拒絶するんですか。イライナ様のことが原因ですか。あなたが理由を言うまで離さない。このまま続けます」
胸を押すために伸ばした腕は捕らわれ、再び唇が重ねられる。
アゼリアに操られていた時はともかく、普段のフレンが俺に対してこんな強引な振る舞いをするなど無いことだ。
こちらの意思を無視した振る舞いは許せないのに、そんな気持ちはすっかり消えてしまう。
もっと、深く。この不安が全て消えてしまうほど触れて欲しい。
フレンの体重がかかって、身動きが取れない。その上息が出来なくなるほどの口づけが執拗に繰り返される。
堪え切れずに「は……」と息を吸うため口を開くと、そこから舌が入り込んで来た。
濡れた音を立てて舌同士が絡まり合う。
それは気持ち良くさせるための行為ではなく、奪うためのもの。吐息はおろか不安も何もかもがフレンによって奪われて消えていく。
「は…はぁ……」
お互い息を乱しながら何度そうして口づけを繰り返したのか。苦しくて目尻に生理的な涙が浮かんだ。
捕らわれていない方の手をそろりと伸ばしてフレンの体を抱き締め返すと、嵐のような口づけは穏やかなものに変わる。
俺がもう逃げ出さないことが分かったのだろう。
「エーティア様……」
背中に腕が回されきつく抱き締められた。
「お前は……フレンか? オーレイヴの生まれ変わりなどではなくて、ちゃんと俺のフレンなのか?」
これだけで俺の伝えようとしたことは、フレンに伝わったらしい。
「それでずっと悩まれていたんですね。もしかして俺の前世が初代国王陛下で、イライナ様と会ったことで昔を思い出すと?」
「そう……だ」
「正直、自分にも生まれ変わりかどうかは分かりません。共通事項が多いのは確かです。ですが、きちんとイライナ様には自分の気持ちをお伝えしました。俺にはエーティア様という大切な方がいて、それはこれから先も変わらず、決してオーレイヴ陛下の代わりにはなれないと」
「い、言ったのか!?」
イライナが激しく泣き出してしまう様子を想像して、血の気が引く。だがフレンは静かに頷いた。
「あの方は分かってくださいました。いえ……、すでに分かっているのでしょう。自分の愛した相手はもうどこにもいないことを。ただひと時だけ愛おしい人の面影を俺に見出していただけに過ぎません」
「そうか……」
「もしも本当に生まれ変わりだったら、エーティア様は俺を捨ててイライナ様に渡すおつもりでしたか? 俺があなたを愛している気持ちなど、どうでもいいと?」
「そんな訳あるか!」
フレンの言葉を即座に否定した。
ぐいっと態勢を入れ替えベッドに押し倒してその上に乗り上げる。傷ついた表情のフレンは抵抗もせずされるがままだ。
噛みつくようにして唇を奪った。
そうしてどれほど俺がフレンを必要としているのか知らしめる。
「エーティア様……」
こちらを見上げる瞳には驚きの色が浮かんでいる。俺からこんな風に激しく触れたのは初めてだからだろう。
「お前を誰かに渡す!? 冗談じゃない。お前が誰かに触られるのも、想いを向けられるのも、すごく嫌に決まっている! お前は俺のものだ!」
そこまで言い切って、今度は声のトーンを落とす。
「お前を好きだからこそ……番を失ったイライナの気持ちが分かるからこそ、怖かった。お前を失いたくない気持ちと、イライナをこのまま放っておけない気持ちが両方ある。そのことを考えると胸が苦しくなって、どうしていいか分からないんだ」
ズキズキと痛む胸を押さえる。
フレンが片手を伸ばして頬に触れてきた。
「彼女のことは可哀想だと思います。力になれることがあればそうして差し上げたい。ですがそれはあくまでもオーレイヴではなく『フレンである俺』としてです。これから二人で、いえ……エギルも共に、彼女が前を向いて歩いて行ける方法を探しましょう。力を合わせれば解決する方法は見つかるはずです」
「フレン……」
「だからもう一人で抱え込まないでください。怒りでも不安でも何でもいいから俺にぶつけて構わないので、もっと話してください。今回みたいに何も告げずに居なくなってしまうのが一番辛いです」
「……すまなかった。お前の気持ちを考えていなかった」
俺は自分のことばかりで、フレンの気持ちをまったく無視してしまっていたようだ。
「そうですね、エーティア様は時々ひどい方だ」
今度はフレンによって体を入れ替えられて、再び背中がベッドに沈み込んだ。
「サイラス様に背負われているあなたの姿を見た時の俺の気持ちが分かりますか?」
空気がピリついて、何だか急に部屋の温度が下がった気がする。
「う……ぁ」
「城から何も告げずに行ってしまったエーティア様が身を寄せたのは、サイラス様の屋敷だったと知った俺の気持ちが分かりますか?」
先程の嵐のような怒りを向けられていたら、こちらも負けじと応戦していただろう。具体的に言うなら「お前だってイライナにベタベタベタベタとくっ付かれていたじゃないか!」と。
だが、打って変わって静かで冷ややかな怒りを向けられると、この口からはぱくぱくと声なき声を紡ぐしかなくなってしまう。
これはかなり怒っているやつだと本能的に分かってしまったからだ。
サイラスの言っていた「マズい」という意味をようやく理解した。
「ひゃ……」
衣類の裾が捲られて、腹の上をフレンの手が這った。明確な意図を持った手の動きだ。ゆっくり胸の方へ上がって行く。
「お、おい?」
「俺がどれほどエーティア様に焦がれ、あなただけしか見ていないのか、教えて差し上げます」
「ま、まて。今はマズいだろ……」
「……サイラス様に見られたら嫌ですか」
嫉妬がありありと滲んだ声だった。先程から随分とサイラスを気にする。
フレンは時々俺に対して浮気を責めるような発言をするが、ここだけははっきりさせておかなければならない。
「……随分と気にするじゃないか、サイラスを。何度も言っているのにまだ分からないのか。番にしたお前以外を愛するはずもないと」
「頭では分かっています。それでもあなたが俺から離れて真っ先にサイラス様を頼る姿を見ると胸が苦しくなる。俺だってあの方のことは尊敬していますが……嫌だ。嫌なんです。あなたと同じです、どうしていいのか分からなくなってしまう」
自分がイライナに向けたもやもやとした感情を、フレンも抱えていたのだとしたら悪かったと思う。あれは本当に胸が苦しくて痛くて心臓に悪い。
フレンが俺から離れて別の奴を頼る。逆の立場で考えていたら、俺はフレンにもその相手にもいらいらして電撃を浴びせていただろう。
「それは……悪かった」
自分が悪かった部分は素直に謝った。
「ここでするのをためらっているのはサイラスだけじゃなくて、誰に見られたって嫌に決まっているからだ。扉を壊してこんなに派手に暴れたら普通は誰かが様子を見に来るに違いない。エギルだって戻って来るかもしれない。お前だって見られたくないだろう?」
「そうでしたか。それなら安心してください、話し合いが長引くので決してこの部屋には近づかないよう全員にお伝えしてあります」
……あの短時間の間に、そんな根回しを……。
用意周到さに唖然とする。
「じっくりとお互いの気持ちを確かめましょう。朝まで時間はたっぷりあります」
朝まで……。
フレンはどうしてもここでお互いの気持ちを確かめたいらしい。
今度は冷汗がじわ、と全身に滲んでいくのを感じた。
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