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私は絶句した。まさかおかしくなっていたのが晃弘ではなく母親の方だったとは。
「晃弘君、今すぐ人形を手放した方がいい」
私の言葉に晃弘は静かに首を振った。
「言ったでしょう、お祓いは望んでいないと。僕はこれでいいんです」
「しかし……」
「母は酷い人でした。父が仕事で忙しいのをいいことに、よそに男を作って僕のことは放ったらかし。ネグレクトも同然で、運動会も授業参観も僕はいつだって一人でした。
でもあの人形が来てから、母は男遊びをしなくなったんです。初めのうちは、人形をまるで自分の子供のようにあやしている母の姿を気味悪く思っていました。
だけどある朝、僕が起きていくと母は食卓に料理を並べていたんです。
テーブルの上には三人分の食事が用意され、椅子の上には市松人形が座っています。唖然とする僕に母は言いました。
『ご飯できてるわよ。早く手を洗ってきなさい』と。
この言葉を聞いた時、僕は思わず泣いてしまいました。あの人が久しぶりに母親らしいことをしてくれたからです。僕は数年ぶりに母の手料理を食べたんです」
晃弘はまっすぐに私の目を見て言葉を続けた。
「歪んだ考えなのは分かっています。でも僕はもう少しだけ、この家族ごっこを続けていたいんです」
晃弘の悲痛な想いに私はなにも言うことができなかった。彼の最後の言葉がいつまでも耳に残っていた。
──僕はいま、幸せなんです。
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