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リュミエールは俺に背を向けると、割れた鏡の前に立った。動くたびに、鏡の破片を踏む音か響く。
「二十五年前の戦争で、私の父――エデル王が亡くなりました」
「あ、ああ、そうだったな……」
「あ、いいえ、父が殺されたことを責めるつもりはございません。私も戦争終結時は二歳。まだ何も分からない歳でしたし……ですが、私の母は違いました。父を戦争で失った母は……心を病んでしまったのです」
そう言いながら、彼女の手が、鏡の枠に触れた。
亡くなったエデル王には男児がいなかったため、弟である叔父が王位を継いだ。
リュミエールは、エデル王家の血を引く者であるため、母親とともに城に残ることが許されたのだという。
生活には困らなかったが、心を病んだリュミエールの母は、彼女に辛く当たるようになった。かと思えば過剰に可愛がったり、外出を禁止するほど束縛したりと、娘に対する態度がおかしくなっていった。
そんな母を皆が見捨てていく中、リュミエールだけはそばに居続けたのだという。
「私が成長し、私に父の面影が出てくると、母はさらに荒れ狂いました。私を父だと思い込んで監禁しようとしたり、かと思えば、私の顔を忘れてお前は誰だと罵ったり……私が感情を表に出すと、決まって母が荒れました。だから母を苦しめたくなくて、私は感情を表に出さぬようにしてきました」
だから……か。
リュミエ―ルの表情が氷結だと呼ばれるほど変わらなかったのは、母のためだけでなくきっと、幼い自分を守る手段でもあったのだろう。
小さな頃から、彼女は……そんな過酷な環境の中で生き続けて……
母親に詰られ、時には過剰な愛情を向けられ、心と頭がぐちゃぐちゃになりそうな中、リュミエールはずっとずっと耐え続けた。
そして、彼女が八歳になった時、
「母が……鏡に訊ねるのを見たんです。”鏡よ鏡、世界で一番美しいのは、誰?”って……。丁度そのとき私は母の後ろにいて、鏡に私の姿が映っていました。それを見た母は、私の若さに嫉妬して怒り狂い……亡くなった父をかどわかす女だと罵り、私に危害を加えるようになりました」
「嫉妬って……そのときお前は、八歳だったんだろ? そんな子どもに嫉妬なんて……」
「もう、母の心は壊れていたんだと思います。自分の子ども――それも八歳の娘を、女として見ることが出来るほど……」
俺がここから見えるのは、リュミエールの後ろ姿だけ。彼女が今どのような表情をしているのかは分からないが、憐れみの表情を浮かべているだろうと思った。
そして決定的な事件が起こる。
「ある日、母が、一緒に出かけようと言ったのです。そのときの母の様子は、まるで心を病んでいないかのような元気さがありました。なによりも……私に微笑みかけ、優しく抱きしめてくれたのです。嬉しかった。やっと母の病気が治ったのだと、やっと今までの苦労が報われるのだと私、嬉しくて――母に誘われるがまま城を出ました。森に連れて行かれ、二人きりになったところで私は、果物を勧められました。喜んでそれを口にした私は――突然苦しみ倒れたのです。果物には毒が入っていました」
リュミエールの声から、温度がなくなる。
「母はもがき苦しむ私を見下ろしながら……笑っていました。笑って……その場を立ち去ったのです」
何も言えなかった。
心を病み、娘に辛く当たる母親でも、リュミエールは愛していた。
だから、心の病が治ったように振る舞う母が嬉しくて堪らなかった。
それが――娘を殺すための仮面だったとも知らずに。
彼女が抱いた絶望は、どれだけのものだったのだろうか。
俺には、想像も付かない。
ただ立ち尽くしたままの俺の耳に、リュミエールの言葉が淡々と続く。
「ですが私は、偶然傍を通りかかった人間に救われ、私を探していた護衛たちに引き渡されました。母は、国王である叔父に、私が毒草を誤って食べたと報告したそうですが、私は……真実を伝えたのです。叔父は私の話を信じ、証拠を揃え、私を殺そうとした罪で、母に極刑を言い渡しました」
「極刑って……まさか……」
「陛下のご想像通りですよ」
「処刑……か……」
ため息交じりに答えを口にすると、リュミエールは軽い調子で「ええ」と頷いた。
「母は処刑されるとき、私を見ながら叫びました。【呪われろ】と。そう叫ぶ母から黒い何かが飛び出したかと思うと、私に纏わりついてきて――気が付けば私は倒れていました。私が気を失っている間に、母の処刑が終わっていました。母は、私が倒れたのを見ると叫ぶのを止めて……笑っていたそうです。首が落される瞬間まで……」
「もしかして、その黒い何かってやつが……」
「狭間の獣です。とは言っても、あの鏡が教えてくれるまでは私も分からなかったのですが。どこで母が獣と出会ったのかは分かりません。ただ分かるのは、母が私を呪い、狭間の獣を憑りつかせたことだけです」
両親を亡くしたリュミエールは、現エデル王の養女として迎え入れられた。
そして、気が狂った実母に殺されそうになった王女だと同情と好奇の目に晒され、狂人の血が流れているのだと眉を潜められながら生きてきた。
エデル国王も、義務として彼女を養女として迎えただけで、愛情をかけることはなかった。むしろ、感情を表に出さないリュミエールを気味悪く思い、厄介払いをしたいと考えていたが、国内で彼女の母の所業を知らない貴族はおらず、縁談も中々決まらなかったのだという。
なので、何も知らない俺との結婚は、さぞかし渡りに船だっただろう。
鏡の枠に触れていたリュミエールの手が、力無くおちた。
「でも母が、私を呪っても仕方ありません。私が、母に殺されそうになったことを黙っていれば、母の話に合わせていれば、あの人が処刑されることはありませんでしたから」
思いもよらぬ言葉に、俺はリュミエールの背中を凝視した。
鏡の残骸を見つめていたリュミエールが、こちらを振り向く。その表情は、殺されそうになった被害者だとは思えないほど、罪悪感で満ちていた。
「私は今、母を殺した報いを受けているのです。だからどうか私を……母を殺した私を、この国に禍をもたらす存在を持ち込んだ私を、断罪してください」
……なんだよ、これ。
何なんだよ、これは!
これじゃまるで……まるで……リュミエールが、
――白雪姫みたいじゃないか。
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