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第31話 世界で一番近い距離で
心ここにあらず、といった感じで残りの時間を過ごし、問題の夜になった。
俺は今、リュミエールの寝室の前にいる。
夜なので周りに人はいない。
今、大波となって押し寄せているのは、何であんなことを言ってしまったのかという後悔。
何であんなことを言ったんだ、過去の俺!
ここまできて、今更取り消しなんて出来ないぞ、過去の俺っ‼
前世でよく見た、猫が別の猫をぺちぺち殴るショート動画に、今と過去の自分を重ねながらウロウロしていると、突然、目の前のドアが開いた。
部屋の中の明かりが廊下に洩れ、光の筋を作る。その先にあったのは――
「陛下。お待ちしておりました」
部屋の明かりに照らされたリュミエールの姿だった。
ここから見える彼女は、いつもと変わらない無表情顔だった。だが俺にかけた声は、幾分か柔らかくなったように思える。
あとこれが一番大きいんだが、彼女が身につけている寝衣が、お見舞いに行ったときと違っていた。
足首ほどあるワンピース型の寝衣で、いわゆるネグリジェってやつだ。
そこは前と変わらないんだが、お見舞いに行ったときには、ショールと上着を着込んで、絶対に肌を見せないという強い意志を見せていたのが、今は、透けるような薄いショールを肩にかけているだけだ。
つまり、肌色の面積が以前よりも増加している。
首回りなんて隠してすらもない。シミ一つない白い肌に浮かび上がる鎖骨は、芸術品と思えるほど形が良い。
それに寝衣の布もテロンっとしてるせいで、思った以上に身体のラインが浮き出ている。
相手にここまでさせている以上、もう冗談でしたではすまされないと思った。
腹を……腹を括るしかない。
前世の記憶を思い出してから俺、何度腹を括っているんだろうか……
部屋は、昼間と違って薄暗かった。
いくつか照明に火が入っているが、全ての空間を照らすには心許ない数だ。一言で表現するなら、おやすみモードに入っている。
「何か、お飲みになられますか?」
「あ、ああ、何でも……」
口の中をカラッカラにしながらそう答えると、リュミエールは畏まりましたと言って、部屋の隅に置いていたワゴンに近付いた。ワゴンの上には、ティーセットやワイン瓶が置いてあった。
と、とりあえず、彼女が準備している間、気持ちを落ち着かせるために、どっかに座ろう。
素早く周囲に視線を向ける。
座れそうなのは、鏡台の椅子、一人用テーブルの椅子、そしてベッド。
……いやいや、なんでこの部屋には、対面で座れるテーブルセットがないんだっ‼
「どこに座れば良い?」
仕方がなく尋ねると、
「お好きな場所にどうぞ」
と、まるでファミレスの店員さんのような返答がリュミエールからきて、更に困った。
今から一緒に何か飲もうってときに、一人用の椅子にかけるのはどうかと思う。
……仕方ない。
俺は意を決し、ベッドに腰を掛けた。腰を下ろすと、ほどよいベッドの弾力と、チェリックの香りがフワッとした。
リュミエールの匂いだ。
彼女が毎日ここで眠っている事実が、香りとなってめっちゃ主張してくる。
気持ちを落ち着かせるつもりが、心音の加速が止まらないんだが、これ、逆効果じゃね?
そのとき、
「どうぞ」
リュミエールが、ソーサに乗ったティーカップを差し出してきた。心の動揺を顔に出さないように細心の注意を払いながら、俺はカップを受け取った。
中身は、ほんのり青かった。名前までは分からないが、確か、リラックス効果のある薬湯だったと思う。前世の世界で言うと、ハーブティーみたいな感じだ。
一口すすると、優しい甘さが喉を通り過ぎていった。
あれ? 俺の知っている味じゃない。
「凄く飲みやすいな」
「ありがとうございます。私が独自で配合したものですが、陛下のお口にあって、良かったです」
ティーカップをもったリュミエールが、笑いながら俺の横に座った。とはいえ、拳五つ分ぐらいは間を空けている。
そんな小さなことを気にしつつ、俺は会話を続けた。
「そうなのか。薬湯の配合をするなんて意外だな」
「昔から好きなのです。エデル王国にいた頃は、城の庭に生えていた薬草を摘んでは、勝手に薬湯を作っていました。城の者たちに知られると怒られるので、内緒でしたが」
そう話すリュミエールの表情は、とても穏やかだった。
エデル王国で過ごした日々は辛いことが多かっただろうが、その中でも楽しい出来事があった事実に、少しホッとした。
薬湯で失敗した時の話をしていたリュミエールだったが、突然ハッと息を飲むと、俺に謝罪をした。
「申し訳ございません。私だけが一方的に話を……」
「いいや、気にするな。むしろ、もっと聞かせて欲しい。お前が楽しかった思い出を」
だって、思い出を語る彼女の表情が、生き生きしていたから。
そんな彼女の表情を、いつまでも見ていたかったから。
俺から許可を得て安堵したのか、リュミエールは色んなことを語ってくれた。
息苦しい檻の中にいるような生活の中でも、ささやかな楽しみや喜びを見つけて生きていたことが知れて、本当に良かったと思う。
彼女の子ども時代の話に一区切りがつくと、俺は飲み終わったカップをサイドテーブルに置き、密かに気になっていたことを訊ねてみた。
「リュミエール」
「はい、何でしょう?」
「お前、何で俺とビアンカのことが好きなんだ?」
彼女が俺とビアンカが大好きだと知ってから、ずっと引っかかっていた。
だって、結婚前に顔を合わせたのは、数回。結婚後は、お互い距離をとっていた。
どこに俺たちに好意をもつ時間があったんだろうか?
ティーカップに唇に運んでいたリュミエールの手が大きく震えた。幸いなことに、カップ内のお茶が少なかったため、零れることはなかったが。
リュミエールは慌ててカップとソーサを、俺の向こうにあるサイドテーブルに乗せると、口元をハンカチで拭った。
「な、何でって仰いましても……」
「昼間、お前は俺に【幸せな気持ちを初めて私に与えてくださったお二人の未来を守れるのならば】とも言ってたな。俺たちはお前に、何かしたのか?」
「そ、それは……その……じ、実は、結婚前の顔合わせの際、あなた様とビアンカが歓談している様子を、たまたま見てしまったのです」
そのときリュミエールは、小さなお茶会を開いている親子が、自分の未来の夫と娘だとは知らなかったらしい。
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