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「指輪には、永遠の愛という意味が込められている。そして――」
左手の薬指に指輪をはめた。白金色の輪が、きつくもなく緩くもなく、細い指におさまる。
「左手の薬指は、心と繋がっているそうだ」
そう伝えると、彼女の左薬指に唇を落とし、手を離した。
俺の手が離れるとリュミエールは、まるで何かに操られているかのように、左手を僅かに震わせながら自分の方へ近づけると、右人差し指で、結婚指輪を何度もなぞっていた。
青い瞳が、左薬指の輝きに注がれている。
「ドレスの色も結婚指輪も、この国では馴染みのないものばかりで、戸惑わせて申し訳なかった。だが……」
彼女の視線が、指輪から俺に向く。
「俺の気持ちを、少しでも目に視える形で知って欲しかった。俺と一緒に転んだり、笑ってくれる者として、これから先、ずっと隣にいて欲しい」
「そんな……そん、な……」
リュミエールの瞳が潤み、大聖堂内の光を反射して輝く。
「私は……じゅうぶん……十分すぎるくらい、あなた様の想いを頂いております。なのに、こんな素敵な……素敵な結婚式をして頂いたら……この身が、もちま、せん……幸せ、すぎて……わたし……」
ギュッと瞑った瞳から、涙が二粒零れ落ちた。
リュミエールが、喜んでくれている。
見ている俺の心が、彼女への愛おしさで苦しくなるほど――
異世界転生のラノベでは、前世の知識を使って色んな物を発明したり、奇抜な方法で敵を倒したり、快適な生活を送るシステムを作り出したりしていた。
だが悲しいことに、俺には物語の主人公のように、大それた前世の知識はない。
石鹸を作る方法も知らないし、前世の世界のインフラがどうなっていたかなんて分からない。
医療の知識だって無いから、体調が悪ければ換気をしっかりして、病人を世話する人間はマスクと手洗いを徹底する、後は病気が悪化しないように、しっかり食べて寝ろ、と言うぐらいしか出来ない。
水素と酸素が化合すれば水になるなどという知識があっても、この世界でどう役立てればいいかも思いつかない。
俺が持つ前世の知識なんて、その程度だ。
世界を変えたり、無双したり出来るような代物じゃない。
しかし、こうやって妻を喜ばせることができた。
前世の知識を使って、特別な結婚式にすることができた。
ならば俺は、前世の知識を今後、妻と娘を喜ばせることに使う‼
今日の結婚式のように前世の知識をつかって、全力でリュミエールとビアンカを喜ばせ、幸せにする‼
これが、前世の知識の新しい使い方ってやつだぁぁぁぁ‼
何も言えなくなっているリュミエールと、前世の知識の使い方を心の中で熱弁している俺の間に、ビアンカの明るい声が通り抜ける。
「ほら、お義母様? 今度はお義母様がお父様に、結婚指輪をつけてあげてください」
「……はい、もちろんです」
ビアンカに促され、リュミエールは涙を拭いながら、リングピローに残る指輪を手に取った。そして俺の左手をとると、
「私の永遠の愛を――あなたの心に捧げます」
その言葉と共に、俺の左薬指に指輪をはめた。
この日――俺は初めて、意識を保つために唇の裏を嚙み、無事結婚式は終了した。
その日の夜は親子三人、一緒に寝ることになった。
リュミエールの隣には、ビアンカ。
ビアンカの隣には俺がいる。
身体を起こしたリュミエールの左手が掛け布団を掴み、ビアンカの上にかけ直した。その手の薬指には、結婚指輪が輝いている。
ビアンカに布団をかけ直してポンポンッと軽く撫でると、俺に微笑みかけた。
「今日は、ありがとうございました、レオン様。忘れられない素敵な式でした」
「それはよかった。でもお前が突然倒れたときは、驚いたな」
「あれは……その……以前レオン様が、倒れそうになっても唇を嚙むなと仰ったので……」
「そうか。ちゃんと守ってくれたんだな」
唇嚙めば大丈夫な程度だったか、あれ?
まあいいか。
「いよいよ……明日出発ですね」
リュミエールの声色が固くなった。実際邪祓いが始まるのは四日後だが、もう緊張しているのだろう。
彼女の視線が、眠っているビアンカの上に落ちた。愛おしそうに継子を見つめながら、寂しく呟く。
「……私は、どのような結果になろうとも、後悔はありません」
「結果は一つだけだ」
俺はわざと、淡々とした声色で答えた。
さもそれが、当たり前だというように。
そうだ。
俺たちがつかみ取る結果は、たった一つ。
無事、狭間の獣を祓い、リュミエールを、この国を救うこと。
それだけだ。
「そう、ですね」
不安そうだった彼女の瞳に、強い光が蘇る。先日、幸せになる覚悟を決めたことを思い出したのかもしれない。
手を伸ばし、リュミエールの頭をそっと撫でると、彼女の頭を抱き寄せ、唇を重ねた。
……まあ、ビアンカがいるからな。今日はここまでだ。
明かりを消して、ベッドに横になる。
聞こえてくるのは、ビアンカの規則正しい呼吸。しばらくしてそこに、リュミエールの寝息も重なった。
次第に俺の意識も遠くなり、現実と夢の境目が曖昧になっていく。
ぼやけた意識は次第に、何かの輪郭を作りだした。
”ありがとうございます、レオン”
――満面の笑顔を浮かべるリュミエールだ。
これは、俺が薄黄色のドレスを贈ったとき、彼女が直接礼を言いに来たときの記憶だ。
今世ではない、繰り返した人生の中で経験したことだったはず。それが夢に出て来たのだろうか。
……まただ。
この違和感は、一体何なんだ。
触れそうで触れられない何かに、苛立ちが湧き上がる。しかし、フッと落ちるような感覚に突然襲われるたびに、リュミエールの笑顔が途切れ、やがて完全な闇に沈んでいく。
意識が途切れる寸前、声が聞こえた気がした。
”――思い出せ”
ファナードの女神と同じ意味を発するその声は、俺とそっくりだった。
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