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「お義母様、心配しないでください。そしてお父様……お義母様をよろしくお願いいたします。どうか、無茶はしないで……」
「ああ、分かった」
「ビアンカも、無理をしないで……」
俺たちはビアンカの手を強く握ると、そっと離した。
ビアンカを包み込んだ光球が、空に昇っていく。俺たちがいる場所から、ビアンカの姿が見えなくなるまで高く上ると、光球から放たれた網目状の光が、魔法陣の円に落ちた。
次の瞬間、周囲の景色が一変した。
どこまでも続く真っ白い空間。
先ほどまで、俺たちを取り囲んでいた聖騎士や神官たちの姿はない。上を見上げても、果てが見えない白が続いているだけで、ビアンカを包み込んだ光球はどこにも見当たらない。
狭間の獣が暴れても大丈夫なように、ビアンカが結界を張ったのだ。
ここにいるのは予め魔法陣の中にいた、俺とリュミエールだけ。
いよいよ始まる。
「レオン様」
リュミエールが俺の名を呼んだ。腹あたりで組まれた両手は僅かに震えていたが、俺を見つめる瞳には一切の迷いはなかった。
この国の王妃としての誇りと威厳に満ちあふれた妻――リュミエール・エデル・エクペリオンの姿があった。
そんな妻の姿を誇らしく思いながら、俺はわざと声色を明るくしながら提案をした。
「そんなに気負う必要は無い。すぐに終わる。そうしたら休暇を延長して、少し遠くまで足を伸ばすか?」
「いけませんよ。ちゃんと予定通りに戻らなければ、皆が心配します」
「真面目だな、リュミエールは」
「真面目ではないですよ。私はただ……あなた様の隣にいても恥ずかしくないよう、常日頃から振る舞いに気をつけているだけです」
リュミエールは微笑むと、俺に向かって躊躇いがちに手を伸ばした。伸ばされた手を掴むと、そのまま彼女の身体ごと、俺の胸に引き寄せる。
どのくらいの間、抱きしめ合っていたか分からない。
リュミエールが、そっと俺の胸を押した。
「……行ってください。そして、決して振り返らないで」
それが、始まりの合図だった。
リュミエールの身体からドス黒い靄が溢れ出した。同時に、自身の身体を抱きしめながら、膝から崩れ落ちる。
抱き起こしたかった。
いや、倒れる前に抱き留めたかった。
だが、俺は振り向くことなく走った。
それは、彼女の願いだったからだ。
狭間の獣に変化する自分を、俺に見られたくないという彼女の――
必死で足を動かすたびに、腰にさした聖剣が鞘の中でカチャカチャと鳴った。
背後で爆発音が響いたかと思うと、遅れてやって来た衝撃波が俺を襲う。突風が吹き抜けた程度の衝撃だったが、代わりに真っ白い空間が黒い霧で覆われた。
立ち止まり、走ってきた場所を振り返る。
霧が一番濃い場所に、巨大な獣が一体、立っていた。
全身は長い黒い毛で覆われていて、顔は狼のそれ。尖った鼻の下には、耳まで裂けた口があり、下顎から鋭い牙が二本飛び出ている。奴が呼吸するたびに、裂けた口から白い煙が立ち上る。
だが首から下は人間と同じように、二本の足で立っていた。狼の頭がなければ、俺の六倍はあるムキムキ巨体をもつ、人間型モンスターのように見える。手も足も、長い毛に覆われている以外は、人間と一緒だったからだ。
身体全身が黒く長い毛で覆われていた巨体だが、胸の丁度中央部分だけ、毛に覆われていない部分があった。
目を凝らし、見えたものは――獣の身体に胸から下全てが埋まっている、リュミエールの姿だった。気を失っているのか、目を瞑ったまま身動き一つしない。
あそこが、俺が目指すべき場所。
聖剣を突き立てて、狭間の獣をぶっ殺す場所だ。
美しい彼女を、こんな姿に変えてしまった狭間の獣に、激しい怒りが沸いた。
聖剣を抜くと、鞘を捨てる。
恐らく、この戦いが終わるまで、聖剣を鞘にしまうことはない。
そのとき、
『うそっ……な、なに、これ……』
俺の頭の中に、ビアンカの声が響いた。確か結界の外から、俺の心に直接指示を出すって言っていたな。テレパシーみたいなものか。
だが俺に届いたビアンカの声は、いつもの自信があるものとはかけ離れていた。
恐怖。
それが、娘の声を満たす感情の名。
「ビアンカ、どうした⁉ なにか想定外のことでも起こったのか⁉」
俺の声が届いたのか、ビアンカの恐怖が止まった。だが代わりに、強い困惑と緊張が伝わってくる。
間違いなく、何かが起こっている。
俺たちの予想だにしない、何かが――
『狭間の獣の形態が、大神殿に伝わっているものと違うのです! それに、獣の力がこれほどまで強いなんて……もしこの狭間の獣が解き放たれたら、被害はエクペリオン王国だけに留まらない……』
「それは、どういう……」
やはり……そうなのか?
ファナードの女神の言う通りなのか?
どうか……どうか違うと言ってくれ、ビアンカ!
だが俺の祈りは、届かなかった。
少しの間ののち、ビアンカは無情にも言い放った。
『この邪祓いが失敗すれば……世界は狭間の獣によって滅ぼされるでしょう』
娘の言葉を肯定するかのように、狭間の獣が咆哮をあげた。
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