第37話 行ってください。そして、決して振り返らないで

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「お義母様、心配しないでください。そしてお父様……お義母様をよろしくお願いいたします。どうか、無茶はしないで……」 「ああ、分かった」 「ビアンカも、無理をしないで……」  俺たちはビアンカの手を強く握ると、そっと離した。  ビアンカを包み込んだ光球が、空に昇っていく。俺たちがいる場所から、ビアンカの姿が見えなくなるまで高く上ると、光球から放たれた網目状の光が、魔法陣の円に落ちた。  次の瞬間、周囲の景色が一変した。  どこまでも続く真っ白い空間。  先ほどまで、俺たちを取り囲んでいた聖騎士や神官たちの姿はない。上を見上げても、果てが見えない白が続いているだけで、ビアンカを包み込んだ光球はどこにも見当たらない。  狭間の獣が暴れても大丈夫なように、ビアンカが結界を張ったのだ。  ここにいるのは予め魔法陣の中にいた、俺とリュミエールだけ。  いよいよ始まる。 「レオン様」  リュミエールが俺の名を呼んだ。腹あたりで組まれた両手は僅かに震えていたが、俺を見つめる瞳には一切の迷いはなかった。  この国の王妃としての誇りと威厳に満ちあふれた妻――リュミエール・エデル・エクペリオンの姿があった。  そんな妻の姿を誇らしく思いながら、俺はわざと声色を明るくしながら提案をした。 「そんなに気負う必要は無い。すぐに終わる。そうしたら休暇を延長して、少し遠くまで足を伸ばすか?」 「いけませんよ。ちゃんと予定通りに戻らなければ、皆が心配します」 「真面目だな、リュミエールは」 「真面目ではないですよ。私はただ……あなた様の隣にいても恥ずかしくないよう、常日頃から振る舞いに気をつけているだけです」  リュミエールは微笑むと、俺に向かって躊躇いがちに手を伸ばした。伸ばされた手を掴むと、そのまま彼女の身体ごと、俺の胸に引き寄せる。  どのくらいの間、抱きしめ合っていたか分からない。  リュミエールが、そっと俺の胸を押した。 「……行ってください。そして、決して振り返らないで」  それが、始まりの合図だった。  リュミエールの身体からドス黒い靄が溢れ出した。同時に、自身の身体を抱きしめながら、膝から崩れ落ちる。  抱き起こしたかった。  いや、倒れる前に抱き留めたかった。  だが、俺は振り向くことなく走った。  それは、彼女の願いだったからだ。  狭間の獣に変化する自分を、俺に見られたくないという彼女の――  必死で足を動かすたびに、腰にさした聖剣が鞘の中でカチャカチャと鳴った。  背後で爆発音が響いたかと思うと、遅れてやって来た衝撃波が俺を襲う。突風が吹き抜けた程度の衝撃だったが、代わりに真っ白い空間が黒い霧で覆われた。  立ち止まり、走ってきた場所を振り返る。  霧が一番濃い場所に、巨大な獣が一体、。  全身は長い黒い毛で覆われていて、顔は狼のそれ。尖った鼻の下には、耳まで裂けた口があり、下顎から鋭い牙が二本飛び出ている。奴が呼吸するたびに、裂けた口から白い煙が立ち上る。  だが首から下は人間と同じように、二本の足で立っていた。狼の頭がなければ、俺の六倍はあるムキムキ巨体をもつ、人間型モンスターのように見える。手も足も、長い毛に覆われている以外は、人間と一緒だったからだ。  身体全身が黒く長い毛で覆われていた巨体だが、胸の丁度中央部分だけ、毛に覆われていない部分があった。  目を凝らし、見えたものは――獣の身体に胸から下全てが埋まっている、リュミエールの姿だった。気を失っているのか、目を瞑ったまま身動き一つしない。  あそこが、俺が目指すべき場所。  聖剣を突き立てて、狭間の獣をぶっ殺す場所だ。  美しい彼女を、こんな姿に変えてしまった狭間の獣に、激しい怒りが沸いた。  聖剣を抜くと、鞘を捨てる。  恐らく、この戦いが終わるまで、聖剣を鞘にしまうことはない。  そのとき、 『うそっ……な、なに、これ……』  俺の頭の中に、ビアンカの声が響いた。確か結界の外から、俺の心に直接指示を出すって言っていたな。テレパシーみたいなものか。  だが俺に届いたビアンカの声は、いつもの自信があるものとはかけ離れていた。  恐怖。  それが、娘の声を満たす感情の名。 「ビアンカ、どうした⁉ なにか想定外のことでも起こったのか⁉」  俺の声が届いたのか、ビアンカの恐怖が止まった。だが代わりに、強い困惑と緊張が伝わってくる。  間違いなく、何かが起こっている。  俺たちの予想だにしない、何かが―― 『狭間の獣の形態が、大神殿に伝わっているものと違うのです! それに、獣の力がこれほどまで強いなんて……もしこの狭間の獣が解き放たれたら、被害はエクペリオン王国だけに留まらない……』 「それは、どういう……」  やはり……そうなのか?  ファナードの女神の言う通りなのか?  どうか……どうか違うと言ってくれ、ビアンカ!  だが俺の祈りは、届かなかった。  少しの間ののち、ビアンカは無情にも言い放った。 『この邪祓いが失敗すれば……世界は狭間の獣によって滅ぼされるでしょう』  娘の言葉を肯定するかのように、狭間の獣が咆哮をあげた。
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