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第43話 妻が泣いていれば、飛んでいくものだろ?(別視点)
黄金の巨木の上部――無数の葉や枝が黒く変色し消滅していく様子を、アリシアはもはや何の感情も抱かずに見つめていた。
巨木が、幹の途中からスッパリ切られたお馴染みの形へと戻ったのを見届けると、幹に背中をつけ、そのままズルズルと座り込んだ。膝を抱え、両膝に顔を押しつけると、足下の水面に波紋が広がった。
(また……駄目だった……)
ファナードは崩壊した。
愛する家族を巻き込んで――
何度繰り返したか分からない。
黄金の巨木と膨大な結晶しかないこの空間で、どれだけの時間を過ごしたかも分からない。
女神になり、ファナードに住まう全ての人々の情報が得られたことで、ビアンカが狭間の獣を祓う力を持つ聖女であることが分かったのだ。聖女の力は、特殊個体の狭間の獣にも効果があった。
本当は、愛する継子を巻き込みたくはなかったが、狭間の獣を祓い、世界を救うためには、聖女の力は必須。
だが一番の障害は、意外な所にあった。
ビアンカが聖女認定を受けるためには、大神殿に行かなければならないのだが、レオンが過保護すぎて王都から外に出すことが殆どないため、ビアンカが大神殿に行かないのだ。
なのでアリシアは、ビアンカが持つ鏡から彼女に話しかけた。
もちろんビアンカは驚き、突然鏡が喋りだしたことを、レオンやアリシアの分身――リュミエールに報告した。
この世界では、不可解な出来事は大体、邪纏いとして扱われる。
例にも漏れず、アリシアがビアンカに話しかけるために使った鏡も邪纏いだとして、神殿に持ち込まれ、邪祓いを受けた。
その際、持ち主も念の為に邪祓いを受けることになる。
過保護なあのレオンのことだから、聖女の次に実力がある大神官に、ビアンカの邪祓いをさせるだろう。
そこまでいけば、後は簡単だ。
ビアンカの邪祓いの際、大神官が彼女がもつ聖女の力に気付き、聖女認定をする。
正義感の強いビアンカは、レオンの反対を押し切って、聖女修行をしたいと言うだろう。
もちろん、ビアンカの望むようにしてあげたいと思っているリュミエールも味方につけば、レオンを説き伏せることも可能なはずだ。
結果、ビアンカは、リュミエールに取り憑いた狭間の獣の存在に気付く。
そして狭間の獣を祓い、世界を救う――
アリシアは同じような手口で、あらゆる時間軸の狭間の獣を、ビアンカに祓わせた。
だが――
「あまりにも……狭間の獣が存在する時間軸が多すぎる……」
副管理者の女神が言ったとおり、獣を祓わなければならない時間軸が多すぎた。
もちろん、リュミエールが存在しない時間軸もあり、その場合は狭間の獣を祓う必要はない。だが、殆どの時間軸にリュミエールは存在し、同時に狭間の獣の特殊個体が取り憑いていた。
そして、必ず祓い残しが発生した。
ときには、狭間の獣がリュミエールに取り憑いていることすら、皆が知らない形で。
ときには、狭間の獣を祓おうとしたビアンカが、邪祓い中に殺されるという形で。
自分の分身が、愛する家族を手にかける光景を目の当たりにする度に、悲鳴をあげるアリシアを嘲笑うかのように、ファナードは何度も滅びを繰り返した。
アリシアも気付いていた。
様々な時間軸に存在するビアンカに働きかけているだけでは、駄目なのだと。
何か大きな決定打がいると。
それにビアンカも聖女とはいえ、修行が足りない未熟な状態で狭間の獣と戦わされている。妖精族の聖騎士たちから力を与えられているとはいえ、失敗しても仕方が無い。
狭間の獣がビアンカを切り裂く光景を、何度見ただろう。
ビアンカとリュミエールを助けたいと自ら聖剣を持ち、狭間の獣に立ち向かったレオンが殺されるところを、何度見ただろう。
青い瞳から涙が溢れた。
心の中で、泣くなと叱咤するが、下まぶたに溜まる涙の量は増えるばかりだ。
アリシアは顔を上げると四つん這いになって、足下の水面を覗き見た。無数の結晶の輝きが視界いっぱいに広がっている。
黄金の巨木の根元に広がる結晶は、ファナードに生きる者たちの魂。
この輝きの中にアリシアの魂も沈んでいる。一つの魂を、女神とリュミエールに割った状態で。
もちろん、愛する家族たちの魂も――
「……レオン」
夫の名前を口にした瞬間、静かだった水面に小さな波紋が広がった。アリシアの瞳から零れた涙が、魂が沈む水の中に落ちて混ざり合う。
一度溢れ出た想いを、もう止めることが出来なかった。
愛する家族を救うため、ファナードの女神となってから、アリシアは初めて泣いた。次々と新たな涙が生まれ、水面に落ち、波紋となって消えていく。
すすり泣き声が、嗚咽へと変わる。
「わ、わたしは……わたし……は、どうすれば、いいのですか? どうすれ、ば……あなたたちを、助けられるのです……か?」
諦めないと誓った。
愛する家族を救うと誓った。
だがその覚悟を揺らぐのに十分なほどアリシアは、世界の滅びを、家族の死と向き合い続けてきたのだ。
「わたしは、ただ……あなたたちが幸せであれば、それでいい、のに……それだけ、なのに……」
彼らの幸せの中に、自分はいなくていい。
彼らが幸せであれば、自分がどうなってもいい。
ただ愛する人たちに、未来を与えたいだけ。
だが、そんな些細な願いすら叶わない――
絶望を胸に、水面に突っ伏したそのとき、
『…………』
アリシアは顔を上げた。
大きく瞳を見開きながら、辺りを見回す。
声が聞こえたのだ。
だがここには、自分しかいない。
『……く……な……』
また聞こえた。
男性の声だ。
もし声が聞こえるとすれば、それは副管理者の女神の声のはず。
『な……く……な……』
――泣くな。
声は、そう言っていた。
間違いなく。
懐かしい、声色で――
突然、水底から何かが浮かび上がってきた。水面が揺れ、小さな波が発生する。
強い輝きを放ちながら水面から飛び出してきたそれは、本来なら水底に沈んでいるはずの魂の結晶だった。
『泣くな、アリシア』
呆然として座り込んだままのアリシアの前に浮かびながらそう告げる声は、アリシアの夫――レオン・メオール・エクペリオンと同じだった。
信じられなかった。
「レオン……なのですか?」
『俺がレオンでなければ、一体誰なんだ?』
少し揶揄うような、懐かしい話し方に、アリシアの心が震えた。
間違いなく、レオンだ。
「どう、して……? あなたの自我は、ファナード内にしかないはずなのに……」
『お前が言っている意味は分からないが……普通、妻が泣いていれば、飛んでいくものだろ? 何があったのかと』
どうやらレオンは、アリシアの涙に反応したようだ。
それがなにか? と言わんばかりのレオンの返答に、彼が起こした何気ない行動が、どれだけ驚くべきことなのか理解していない様子に、アリシアは笑った。
「……だからって……普通は、自分が生きる世界の外まで、飛んできません、よ……」
喜びの涙を流しながら、笑った。
レオンがアリシアを想う気持ちが、奇跡を起こしたのだ。
レオンはレオンで、ようやく自分がいる場所の異様さに気づいたらしい。若干、声色に困惑を滲ませながら、まるで周囲を見回しているかのように、結晶の表面がキラキラと輝いた。
『で、ここはどこだ? 俺たちはどこにいるんだ? え、何だこれ……木? でかくないか?』
「ここは、ファナードの外です。そしてあなたが見ている木が、ファナードそのものなのですよ」
『ファナードの、そ、と? え? 木がファナード? え、あ……ちょっと、意味が分からない……』
レオンが更に混乱している。今の心境を現すように、結晶の表面がせわしなく光っている。
彼の感情や表情が、表面の輝きになって現れるみたいだ。
慌てふためき、ピカピカと光っている夫を見つめながら、アリシアは失った心の温もりが戻ってくるのを感じていた。
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