105人が本棚に入れています
本棚に追加
不本意ながらそんな彼の支えを借りる形で体勢を戻し、向き直って俺は問う。
「残念ながらあまり好きじゃないですけど、先輩、何してるんですか」
「えーん! 聞いてよぅ、永司くん!」
猫撫で声でそう切り出したかと思うと、今度は堂々正面から抱きつかれてしまった。声のボリュームも上がっているせいで周囲の注目を集め、通行人にちらちら見られている。
酔っ払いが唾棄すべき存在であることをより痛感する例が、この先輩である。
「学科の友達と飲んでたのにさあ、俺ってば捨てられちゃったんだよぅ。可哀想だよね? 俺、可哀想だよね?」
周辺の居酒屋で友人と夕食を取りがてら酒を飲んでいた偲先輩。ところがその友人、途中で電話に出たかと思うと、然るべき代金だけを偲先輩に預けて先に店を出て行ってしまったとのこと。
「彼女に呼び出されたんだってさ! やんなっちゃうよね、ホント。俺、負けたってことだもんね。その彼女とやらにさ」
「……勝ち負けはよく分かりませんけど。何にせよ少々薄情な扱いを受けちゃいましたね」
「えーん! 寂しいよぅ、寂しいよぅ」
元の声が高音なだけあって、泣き真似がより子どもじみて響く。
同情する気持ちが半分、周囲の目が痛いからとにかく黙らせたい気持ちが半分。とりあえず、偲先輩の背中をさすってやった。
酒の匂いをまき散らしながら、くだらないことでぐだぐだと文句を垂れて、通りすがりの後輩に情けない姿で縋る偲先輩には呆れながらも、少し羨ましいと思った。こんなにあけっぴろげにお気持ちを表明する真似なんて、俺にはとてもできないことだから。
町の雑踏に嫌気がさして自分の心を遮断したのも、きっと妬ましさから逃れるためだろうなと、他人事のように内省する。
知らず知らず、ぼーっとしていたところに、偲先輩の声で現実に引き戻される。
「――――ねえ、永司くん。首のところ、どうしたの?」
抱きついて顔をうずめるほどに近寄れば、数時間前にできたその傷は偲先輩の目にはっきり見えてしまう。
「まあ……バイト中の事故ですね」
利用児童の個人情報漏れはご法度なので、特定に繋がらないようぼんやりした言い回しでお茶を濁す。
「あー、学童クラブだっけ? 大変だよね。学校みたいに席についてまとまってるわけでもないしさ。小学生だって高学年にもなれば体も大きいし、やんちゃな子なんかいたりしたら、止めるのだって一苦労でしょ」
偲先輩は詮索するでもなく、あっけらかんとした口調で理解を示す。そこは彼も、仮にも教育学部在籍。子どもに関わる現場という点で共有できるものがある。
「頑張ってたんだね。お疲れ様。君が大変な時に、俺ってば暢気に酒飲んでてごめんね」
先ほどまでのしがないざまから一変。急に姿勢も口調もしっかりとし出して、俺の頭を撫でて労う言葉をくれる偲先輩。冗談めかす声はどこまでも優しくて。
嬉しいよりも、懐かしい、という気持ちが先立った。
高校時代に見ていた彼の姿だ。漫研部で後輩達に囲まれながら笑っていた時の。みんなに愛嬌を振りまいて親しまれていて、けれども先輩らしくさり気なく導く力もあって、間違いなくそこに光を差し込んでいた。
俺はその光を自ら遮った人間だけれども。
最初のコメントを投稿しよう!