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如何せん今日は駄目な日だ。少し気を抜くと、思考が過去や後ろや内側に向いていく。
「……本っ当に、災難だったんですよ」
あちこちへ向かう思考を一端ぶった切って、俺は全てを軽口で片づける。
「そんなわけで疲れてるので、先輩とは遊べません。お疲れ様でした」
やはり自分の部屋に帰るより他ないと思い、踵を返そうとする俺。
ところが、偲先輩がそれを許さず、再び手首を掴んできた。今度はやや強い力で引かれた。
「待ってよ。一緒に帰ろうよ」
満面の笑みを浮かべて言う。
「そんでさ、俺の部屋においでよ」
「はあ……!?」
予想だにしなかった提案に思わずリアクションが大きくなって、俺は慌てて自分の口を抑えた。
息を整え、声のボリュームも戻してから、次の言葉を続ける。
「……何なんですか、唐突に。酔っ払い過ぎなんじゃないですか」
「だって、寂しいじゃない。お互い今日は嫌なことあったしさ、慰め合おうよ」
「結構です。俺、そういうの他人と分かち合える人間じゃないんで」
俺の部屋に偲先輩が上がる機会はこれまで何回もあった。講義に出席する目的で、今は毎週泊まりにさえくるほど。
しかし、俺が偲先輩の部屋に行ったことは一度もない。どこに住んでいるのかも知らない。わざわざ訪ねる用事もないし、別に行きたいと思ったこともなかったので、これまで話題に出すことはなかった。
そこへ、この流れだ。あまりにも出抜けな。
妙なリズムの動悸までしてきた。偲先輩の意図が分からないことに、恐れを感じているのかもしれない。
そんな俺の揺らぎを確かめるように、偲先輩が顔を覗き込んできた。彼の深い色の瞳は、引きずり込まれてはいけない沼のように見える。
身体が警鐘を鳴らす感覚が走り、俺は顔を下げて目を反らす。
すると次は、声で。
「――――あのね永司くん、いいこと教えてあげる」
囁く声がいやに甘くて、否が応でも耳を傾けてしまう。
「俺の部屋ってさ、家族以外誰も入ったことないんだよ。俺、友達の部屋とかにはよく行くけど、自分の部屋に誘ったのは、実は永司くんが初めてなんだ……永司くんだけ」
いくら俺だって馬鹿ではない。“初めて”とか“だけ”とか、敢えて特別扱いする言葉は相手を騙す人間の常套句だ。詐欺の遣り口にすら応用されるほどの。
分かっているのに。
「仕方ないな」などと尤もらしい言い訳で防衛しておきながら、偲先輩の甘言を受け容れてしまう。
ああ、だから俺は駄目なんだ。こんな馬鹿々々しいことでさえ、マイナスを更新してしまうのだから。
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