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壁越しに響いていた水の流れる音はいつの間にか止み、代わりに、パキッという樹脂パネルの扉が開く音がする。それから、人ががさごそと動く気配。
間もなく彼が戻ってくることを悟って、再び俺は表情を作る。
「……先輩。風呂場も案の定汚かったです。水垢がエグかったので、俺、勝手に掃除しちゃいました」
シャワーを借りたことよりも先に苦情の言葉が出る辺り、永司くんも大概横柄だ。けれども、嫌いじゃない。これに関しては彼の素の一面だから。他の人間相手だと分からないが、俺との間では絶対に「ありがとう」「ごめんなさい」が言えない子なのだ。
そんな彼に対しては、必然的に俺の方が礼を言うことになる。
「えー、わざわざありがとう。洗剤とかどこにあるか分かったの?」
「全部脱衣所に転がってましたよ、家じゅうの掃除用品が」
「あれ、そうだったっけ?」
決してとぼけているわけではなく、本当に記憶があやふやだった。俺は自分の部屋のことが全然把握できていないが、特段困ってもいないので一向に改善しない。
そんなことよりも、目の前の永司くんの姿が、予想以上に俺を刺激してきて困惑している。
「ああ……永司くんが俺のジャージ着てる。永司くんが俺のジャージ着てる……!」
「繰り返して言わないでください、不本意なんで」
湯でその日の汚れを落とした彼の身体を包む、紺のポリエステル生地は、俺が高校時代に着用していた学校指定ジャージだ。学年カラーの青ラインが腕と脚の横の部分に入っている。急遽泊まることになって何の用意もない永司くんに、寝間着代わりに貸したものだ。下心半ばで。
背丈は彼の方が少し高く、身幅は俺の方が少し広く。サイズの同じ服を難なく共有できている。目を引くのは、左胸の部分に縫いつけられているフルネームの刺繡。俺の名前のついた服を着ていることで、永司くんが自分のものになったかのように錯覚して、胸が不規則に高鳴る。
幸いにも、本人には気づかれずに済んでいるようだが。
「……そもそもこのジャージ、ちゃんと洗ってるんですか?」
「流石に洗濯したやつだよ! 失礼な子だな君は!」
いくら何でも不名誉な指摘だったので、俺は少し強めに突っ込みを入れた。
すると、彼が何の気なしの動作で、袖を自分の鼻へ持っていって匂いを確かめるものだから、どきりとさせられる。
「……まあ、確かにそうですね。清潔な時の先輩の匂いがします」
「不潔な時があるみたいな言い方しないでくれる?」
互いに軽口を叩き合うと、まるで出会ったばかりの、単純な親近感だけがそこにあった頃を思い出す。
戻りたい懐かしさとそういうわけにはいかない歯痒さが、せめぎ合う。
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