1.自尊心の最小値

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 皆から慕われる偲先輩だが、かつてそんな彼に傷つけられた人物がいた。それが俺の兄だった。  決して悪意からのいざこざではなかった。偲先輩はいつだって相手に思いやりを持って接するのが信念だ。しかし皮肉なことに、その信念はあまりにも強固で、意図せず相手を苦しめてしまうことがある。その対象が兄だったのだ。  兄も兄なりの形で偲先輩に反発していた。けれども、それまで偲先輩のポリシーのもと“みんな仲良く楽しく”していた当時の漫研部ではちょっとした騒動に発展した。  兄の言い分は十分理解できた。偲先輩の愛情深さや人懐こさは、度が過ぎると押しつけがましく独善的になってしまう危うさを有していた。だから、兄がそんな彼の姿勢に疑問を感じていたのも、ある意味では自然なことだった。  ただ、偲先輩は思った以上に自分を省みることができない人だった。自分の理想に強くこだわり、そして自分がその理想から外れることを認められないためだ。  俺は、偲先輩や部員達から兄が一方的に悪者にされることを危惧した。苛めや排除はこの程度のきっかけからでも起こることを、嫌というほど知っていたからだ。  だから俺は、部外者の立場でありながら彼らの悶着に介入し、兄にヘイトが集中しないように図った。結構無茶な掻き回しもしたが、結果的には兄も偲先輩も他の部員達も以後は普段通りの関係に戻り、漫研部一同は丸く収まる形となった。  漫研部一同は。  その陰で偲先輩と俺の仲は、この出来事をきっかけにどんどん歪に変わっていくはこびとなった。  騒動の後、偲先輩は俺を無視するようになった。向こうから話しかけてこないどころか、こちらの挨拶や呼びかけの声に反応することすらなくなったのだ。  初めのうちは偶然かなとか、聞こえなかったのかななどと考えたが、あまりにも繰り返されたことで、それが故意の態度だと思い至った。同時に、この時に初めて、自分が彼に嫌われたのだと気づいた。
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