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あの世の世界線
「おはよう、お姉ちゃん。」
ベッドに横たわる姉、美佳にいつも通りに声を掛けながら、葵は妙な違和感に気がついた。
姉はここ三年ほど闘病生活を送っていて、最近はめっきり顔色も悪かった。医師にももう長くないと宣告されていたので、自宅で看取ることにして家族で看病していたはずだ。
それが今朝は顔色も凄く良くて、溌剌としている。
葵は嬉しくなって、横になった美佳の温かい頬を指で撫でて笑った。
「えー、どうしたの?凄い元気じゃん。」
そう言ってから、思わず葵は美佳に触れた手を止めた。ドクリと心臓が止まる。姉の美佳は半年前に死んでしまった筈だ。一体これはどう言う事なんだろう。
慌てて周囲を見回すと、相変わらずいつも通りのリビングの風景が広がっている。実際家族で看取るためにリビングに持ち込んだベッドは、亡くなった後処分してしまって今はない筈だ。葵は戸惑いながらも、この状況を妙な冷静さで受け止めていた。
そうか、夢だ。これは夢に違いない。
葵はそれならそうと、久しぶりに会う姉の美佳との再会を楽しむことにした。
「…お姉ちゃん死んじゃったでしょ?だったらもう歩けたりしないの?」
闘病中の美佳は病気のせいで早くから車椅子生活だった。だから亡くなった今は自由に歩き回れるねと、家族で話題に上がっていたせいで、葵はその事がまず気になった。
美佳がどうするか見つめていると、美佳は少し照れた様な明るい表情を浮かべてムクリと起き上がった。
「ああ、そうだった。つい病人の時の習慣が抜けなくて横になってた。もう歩けるよ?」
そう言うと、ゆっくりベッドから起き上がって一歩一歩歩き出した。美佳のそんな後ろ姿を見つめながら、何処かぎこちない動きに葵は思わず声を掛けた。
「いつから歩ける様になったの?」
すると振り向いた美佳は、少し考え込みながら思いがけない事を言った。
「えーと、私は4008完全復活に掛かったからね。まだちょっと歩くの怖い気がするんだ。」
葵は引き出しから取り出したメモ帳に4008という数字を書き込んだ。秒?分?時間?時間なら五ヶ月ちょっとだから、このぎこちなさはぴったりくる。
そんな葵の様子を見て、美佳はクスクス笑って機嫌良く言った。
「なあに?メモまでして。」
葵はまだ混乱していたものの、この貴重な亡き姉との時間を無駄にしないつもりだった。この会話を忘れないために夢の中でもメモを取ることさえした。亡くなった相手との夢は、実際には会っている事と変わらないという話を聞いた事があったからだ。
「死後の世界に興味があるから、後で検討しようと思って。ね、あっちの世界ってどんな感じなの?」
夢の中のせいか、さっきはベッドだったのに今はソファになったそれに座った美佳は、のんびりした様子で葵を見て笑みを浮かべた。
「えー、そうだなぁ。平和?そんな感じ。でもこことそう変わらないよ。いわゆる生活苦みたいのはないけど。まぁ、私は生活苦とか経験ないでしょ。だから余計に変わらない。
もちろん身体は元気になったよ?でも色々な年齢の人がいるかも。」
葵は姉の美佳をまじまじと見て感じる事を言った。
「そう言えばお姉ちゃんは亡くなった時と、そんなに見かけ年齢は変わらない気がするね。もしかして亡くなった年齢のまま過ごすの?」
美佳は首を傾げた。
「…どうかな。私はほら、死んだ時に25歳だったから、特に若返る必要も感じなかったっていうか。でも年寄りばかり見かけるわけじゃ無いから、亡くなった年齢とかあまり関係ないかもね。」
葵は亡くなった姉が、死後の世界でどんな生活をしているのかもっと聞きたくなっていた。姉の様子からまだ話をしている時間はありそうだと感じた彼女は、さらに質問を浴びせた。
「食べ物とか、何食べてるの?」
変わらない生活というので、きっと霞を食べている訳じゃないと思った葵は、美佳にそう尋ねてみた。
「ああ、お菓子とかもあってね。でもここには無い感じのもの。脱法ハーブみたいのも普通に使うよ。全てがリラックスのためにあるって感じかな。」
葵は眉を顰めた。死後の世界に脱法ハーブとか、何とも奇妙な感じがする。ふと、そのお菓子は一体どうやって手に入れるのか不思議に思った。どうも話を聞いていると、姉は別の世界で生活している様にしか思えなかったからだ。
するとその時、見知らぬ青年がリビングにいきなり入って来た。玄関の鍵は閉まっていた筈なので、おかしな話だ。けれどその時の葵は夢の中だと自覚していたので、そこまで変な事だとは思わなかったのだ。
夢の中なら何でもありだろう。
明らかに姉より若い、18歳ぐらいに見えるその青年は、会話をしている私たちを見ると分かりやすく顔を顰めた。
「美佳さん、もうすぐ集合時間だよ。いくら妹の夢の中とは言え、喋りすぎるのはどうかと思うけど。」
そう言いながらも、青年もまた窓辺の椅子に座ったので、急いでいる様でもないと葵は思った。それより青年は私たちの会話に参加しても良いと言わんばかりの空気を醸し出していた。
葵はやっぱりこれは夢なのだと再確認して、青年に話しかけた。
「ねえ、今お姉ちゃんにあっちの世界で食べるお菓子の話を聞いてたんだけど、それってあっちで作ってるって事?それって亡くなった人が労働してるって事なの?」
すると青年はチラッと姉の美佳を見ると、ため息混じりに言った。
「色々話しちゃってるんだ。まぁ、あまり核心的な事じゃなければ良いのかな。僕たちが作ってるって訳じゃ無いよ。僕みたいに若くして亡くなった動ける人間のコピーを作るんだ。複製っていう方が合ってる?
その複製が労働してるって言えば良いかな。美佳さんは亡くなったばかりだから、まだ複製されて無いよね?」
青年に尋ねられて、美佳は首を傾げた。
「ああ、そう言えばもう複製は要らないって言われた気がする。」
青年は美佳の言葉を聞いてしばらく考え込んでいた。
「…複製が要らない?あの複製だってずっと使用できる訳じゃ無いのに。一体どういう事だろう。」
葵は二人の会話を聞いていて、ふと思いついた事を言った。
「もしかしてもう必要無くなるとか?」
彼の言う新参者で、あまり自分の置かれた状況を知らない姉の美佳は、首を傾げて青年を見つめた。
確かに目の前の青年は10代に見えるけれど、表情は随分落ち着きがあって姉の指導者の様な雰囲気がある。けれども分かりやすく難しい顔を浮かべた青年は、動揺した様子でつぶやいた。
「…僕らの知らない所で何か変化が起きているのかもしれない。これ以上この話をするのは危険だ。…美佳さんもう集合時間だよ。行こうか。」
姉が素直に立ち上がるのを見て、葵は思わず姉の手を取った。
「…お姉ちゃん、また会えるよね?」
微笑む姉の後ろに、いつの間にか二十人程が乗れそうなエレベーターが開いていた。明るいエレベーターの中には老若男女の12、3人が乗っている。青年に促されて、一緒にエレベーターに乗った姉の美佳は屈託のない笑顔で葵に言った。
「葵ちゃん、見送ってくれてありがとう。またね?」
手を振る姉の言葉を耳に残して、エレベーターは静かに扉を閉めた。
姉が行ってしまった。でもまたこうして夢で会えるだろう。葵はそんな確信めいた気持ちで、近所の住宅街を歩いていた。夢だと自覚しているので、シチュエーションがコロコロ変わる事に何の違和感も感じていなかった。
その時、見たこともない変わった車が一台、前方から向かって来た。葵はこんな車がいつ発売されたのだろうとまじまじと見つめてしまった。丸みのある自動車が多い中、酷く角張った乗り物は、車に疎い葵でも違和感を感じた。
その車は葵のすぐ側に停車して、中から30代半ばほどの薄いサングラスを掛けた女性が一人降りて来た。
「葵さん?美佳さんの妹さんね?」
葵はさっきの事もあったので、何が起きても受け止められる妙に冷静な気持ちになっていた。
「ちょっと話したい事があるの。さっき美佳さん達と話した内容について確認が必要な状況だと報告があって。」
葵はすぐに青年の言っていた複製絡みの話だとぴんときた。姉の言った、もう複製が必要ないという言葉が思いの外重要な発言だったのかもしれない。
この目の前の人物は、姉の居るあの世の世界を管理しているのではないか。葵は自分の想像に少し緊張を滲ませて言った。
「あの、どう言う事ですか?」
その女性は葵をじっと見つめて助手席を開けると、乗る様にジェスチャーして言った。
「ちょっと話がしたいだけなの。乗ってくれるわね?」
それだけ言うと女性はさっさと運転席に戻ってしまった。
いつもなら葵は知らない相手の車に乗る様な不用心な事はしない。たとえそれが同性だとしてもだ。誰だってそうだろう。けれども葵はここが夢の中だと自覚していたし、何ならこの思いもしない状況を楽しみ始めていた。
…夢の中ならいつか目が覚めるだろうし。そんな気持ちも無かったとは言えない。
葵が見慣れぬ車に乗り込むと、奇妙な外見に比べて車内はありきたりの内装の様に感じた。葵はまだ免許がないから詳しくはないが、特に変わった感じには思えなかった。
けれど女性がハンドルに手を掛けると、音もなく車は動き出した。それから周囲の景色がまるで映像の様に飛び退っていく。目で追う事も出来ないスピードで走っているのは分かったが、それはリアルでは絶対あり得ない話だった。
あの住宅地をこのスピードで車が走る事など出来ないのだから。
全て夢の中だからと言い訳しながら、葵は一抹の不安も感じ始めていた。夢の中とは言え、こうして自分の力の及ばない所へ連れて行かれたら、意識が肉体に戻れなくなるのではないだろうかと、都市伝説好きの葵はついそんな事を考えてしまう。
今更降りる事も叶わない葵は、膝に置いた手をぎゅっと握った。そんな葵の様子をチラッと見た女性は相変わらず感情の見えない口調で葵に話しかけた。
「葵さんも分かっている様に、ここは貴女の夢の中よ。正確には貴女だけのものでは無いけどね。貴女の亡くなったお姉さんである美佳さんを介して繋がった別の世界に、今貴女はいるの。
目が覚めたらきっと忘れてしまうでしょうから、ここまでする必要はない気もしたのだけど、葵さんさっきメモしたでしょう?あれをされると少し問題なの。
知らなくて良い事が現実の世界線に残ってしまうから。こちらは強引に記憶を消す事はしたくないから、葵さんがどの程度こちらの世界線と親和性があるか確認してからどうするか考えさせてくれる?」
葵は隣で運転するこの女性がまるでバリキャリの様だと盗み見ながら、恐る恐る尋ねた。
「あ、あの、私殺されたりしませんよね?」
すると前を見ながら女性は赤い唇をニヤリとさせて、初めて楽しそうに答えた。
「葵さんは随分ハードボイルドが好きなのね?命の燃えている貴女をこちらの世界に留めておく事はできないし、禁じられてるわ。だから安心してちょうだい。」
ハードボイルド?どこかで聞いた様な言い回しだけど、葵にはよくわからない言葉だった。多分危険な事が好きって言われた感じがする。葵が黙っていると、車窓の景色がゆっくりと形を取り戻し始めた。
「到着するわ。ここは貴女の夢の中から少し離れた場所よ。だから必ず私と行動を共にして頂戴。そうしないと帰るのが難しくなるかもしれないから。」
車が停まったのは大きな研究所の様な建物の玄関前だった。ガラス越しに行き交う人達が、隣の女性の様に皆白っぽい服を着ているのが見えた。
葵は思わず自分の着ている服を見下ろした。夢の中で姉の美佳に会ったのでもしかしてパジャマかもしれないと思ったのだ。けれども着ていたのは最近お気に入りの、レモン色のコットンニットにストレートジーンズだった。
夢の中だから想像も自由なのかな。そんなどうでも良い事を考えながら車を降りると、葵より5cmほど背の高い女性が自分に付いてくる様にジェスチャーすると、先に立って建物に向かって歩き出した。
『私と離れない限りは大丈夫』そんなニュアンスで言われた手前、葵は慌てて女性の後を付いて歩き出した。葵は建物が近づくに連れて、足元がまるで透明の階段を降りる様な妙な感覚に堕ちていった。
真っ直ぐ平らな地面を歩いているつもりなのに、建物はどんどん周囲に拡大して自分だけがのめり込んでいく感じだ。その目が眩む様な感覚に、慌てた葵は女性の腕を掴んだ。
「ああ、そうね。貴女達はこれに慣れていないのよね。」
そう言うと、女性は葵の手を掴んで歩き出した。見知らぬ年上女性と手を繋ぐ事など経験がなかった葵は、少し戸惑いながらも半分やけっぱちで引きずられる様に歩き続けた。
実際、周囲の景色がどんどん近づいては歪んで離れていくので、目の前の真っ白な扉に辿りついた事にさえ気付けなかった。
「ここは調査室よ。貴女はこの世界の異端子だから、念の為に深部で詳細を聞く事にしたの。小さな異物であっても、影響が全く出ないって事は無いから。この世界のためにも、貴女のためにもそれは必要な手立てなの。どうぞ入って。」
扉の中へ案内された葵は、まるでインテリア雑誌で見る様なレトロポップなアメリカ風の内装に頬を緩ませた。何ともカッコカワイイ。北欧風とも、モダンとも違う、遊び心満載の部屋は一瞬今の葵の状況を忘れさせた。
奥の方から中年の男性が手招きした。淡いピンクの渦巻き模様がプリントされた直径1mほどのプラスチックの丸いテーブルに、カフェオレの様なものが置かれている。
夢の中のものを飲んでも大丈夫だろうか。確かその世界のものを食べると戻って来れないみたいな神話があった気がする。映画に出てくる様な丸い椅子に座ったものの、飲むかどうか迷っていると、女性がサングラスを外して美味しそうにカップからそれを飲んだ。
葵は喉が渇いているのを自覚しながら、それでも飲むのを躊躇っていると、女性が面白そうに笑って言った。
「大丈夫よ。夢の中から戻れなくなるわけじゃ無いわ。口に合うかは分からないけどね?」
そう言われて、葵は恐る恐るカフェオレもどきを口にした。それは見た目を裏切るものだった。飲んだことのない説明の出来ないその味わいは、葵の目を見開かせた次の瞬間、眉をひそませた。
「ふふ。やっぱり口に合わなかったみたいね。早速だけど貴女のお姉さんと話した内容について確認させて頂戴。
複製の話だけど、この件は突拍子もない話だから、たとえ貴女がぼんやり覚えていたとしても問題ではないの。現実とかけ離れているとそれはリアルでもリアルさの手触りは感じられないでしょ?
問題は美佳さんの言葉で田村君が疑念を抱いてしまった事ね。あの子はああ見えてこの世界が長いから、美佳さんのお世話役にしていたんだけど、勘が良いから困った事になりそうだわ。…貴女もね?」
葵はあの時自分が何気なく言った言葉を思い出した。
『もう必要がなくなる』確かそう言ったはずだ。人型の複製が作り出す、亡くなった人達が癒されるための食事やお菓子、脱法ハーブ?その様なものが作られなくなるというのは一体どういう事なのか。
亡くなる人達は決して減らないだろう。超高齢化の国なんだから、若い人は死ななくても待ったなしの老人は多い。では一体?
「…もしかしてこの世界が無くなるのですか?姉は、そしたらどうなるのですか?生まれ変われますか?それとも消えて無くなるのですか?」
葵は急に切羽詰まった気持ちになって、目の前の二人に問い掛けていた。
二人はさっきまでの柔らかい空気を変えて、今やまるで感情を見せない冷たい空気を漂わせていた。
「三澤さん、やはりこの子は知りすぎたのでは?」
飲み物を用意してくれた中年男性が女性の方に顔を向けて言った。三澤さんと呼ばれたバリキャリ風の女性は、葵をじっと見つめたまま口を開いた。
「そうかもしれませんが、一方でこれは一つの突破口かもしれません。私たちに葵さんの居る現実世界への働きかけは出来ませんが、彼女はそこに属してますから。」
小さな音でも拾えそうな沈黙がその場に漂った。葵は話がどこに向かうのかまるで分からなくて、二人を睨みつける事でしか己を保てなかった。姉にはあの穏やかな安らいだ様子を永遠に続けて欲しいと思ったし、まさかその状況が失われる可能性など考えもしなかったのだ。
あの世がどんな世界線でも良い。亡くなった家族がもう一度笑っていてくれるのなら、それで十分なのに。
「この世界はあの世と呼ばれるもののひとつですが、近々大きな変動予測があって多分維持出来ないでしょう。生まれ変わりを急いでも、亡くなって時間が経っていない貴女のお姉さんは、その前に別の場所に移されるか、それが間に合わない場合、バランスの崩れたこの世界と共に消えてしまう可能性もあります。
そうならない様にこちらも準備していますが、変動の規模が大きければ対応出来ないのです。…ちなみに変動予測は、そちらの世界の問題です。」
中年男性が説明してくれた未来予測は想像以上だった。現実の変動予測って?何か大きな出来事が起きるというのだろうか。大勢の人達が死ぬ?地震?戦争?心当たりがあり過ぎて、葵はガタガタと震えてきた。
ちっぽけな自分だけで、そのうねる様な大きな変動を止める事など出来るのだろうか。葵は思いもよらないこの話に、何と言って良いか分からなかった。
「なぜ私にそんな話をしたのですか?私に何が出来ると言うんですか?この世界を守っているだろうあなた達に出来ない事を、私が出来る?出来ません。出来るわけないです!」
中年男性が小さくため息をついたのが分かった。
けれど、三澤さんと呼ばれた女性は、まだ葵を感情の読めない眼差しでじっと見つめていた。
「起きる事は防げなくても、ダメージを減らす事は出来ると思わない?小さな呟きは時には大きな流れを作ることが出来る。大きな川の源は小さな湧き水だったりするわ。
…安心して。夢の中の事はぼんやりとしか覚えていないものだから、やがて失われる様に出来ているの。貴女に覚悟がなければ、きっとここで話した事も直ぐに消えてしまうでしょう。
貴女は今まで通りに生きていける。どう選ぶかは葵さんの考えひとつよ。」
三澤さんは中年男性の方を向くと何か話していたけれど、なぜか葵には理解できない言葉に聞こえた。
「送っていくわ。葵さんを拾ったあの場所まで。行きましょう。」
中年男性にペコリと頭を下げた葵は、慌てて三澤さんの後を追いかけた。部屋の扉を開けるとそこは最初目にした研究所の様な建物の外で、目の前に例の車が停まっていた。
三澤さんが開けてくれたドアから車に乗り込むと、やっぱり音もなく車は走り出して、窓から見える景色はあっという間にカラフルな色の流線になった。二人は黙りこくっていた。
「…再会した姉は幸せそうでした。何の恐れもない、優しい笑顔で楽しげで。病気をする前の姿そのものでした。…姉はあの笑顔を失うのですか?」
口火を切ったのは葵だった。三澤は前方を見つめながら答えた。
「どうかしら。この世界と共に消えてしまっても、幸せか不幸かは分からない。無になるだけだもの。私は生まれ変わっても、必ずより良い人生になるかどうか分からないと思ってるの。
いっそ無になってしまった方が幸せかもしれないという気持ちも無いわけじゃないわ。そのせいでこんな仕事を引き受けて、いつまでもここにしがみついているのかもしれない。
だからこの世界が無くなる時は、私も共に無になるでしょう。その覚悟はあるわ。」
三澤さんは一体どんな生前を過ごしてきたのだろうと葵は思った。癒された人達が順番に生まれ変わるとするならば、三澤さんはそれを拒絶しているのだろうかと。
「誰もが生まれ変わるのですか?」
葵は生まれ変わる事が必ずしも良いとも思えなくなっていた。だってもし大きな災害の真っ只中に生まれたら、それは苦難の始まりではないだろうか。
三澤はチラリと葵を見て呟いた。
「私にも分からないわ。生まれ変わる必要のある人は時がくればそうなるってだけだから。美佳さんも必要ならそうなるでしょう。…必要ならね。」
結局二人はそれから殆ど会話をする事なく、葵の住む見慣れた住宅街に到着した。
「葵さん、無理する事はないわ。誰もそんな重責を抱えては生きられない。なる様になるだけよ。それに夢というものは消えるものだから。」
そう三澤さんは少し優しい口調で言うと、見送る私の前から文字通り消えた。あの奇妙な車が動き出したと思った次の瞬間にはその姿は見えなくなってしまった。
周囲を見回しても妙に気配のしないこの見慣れた街角は、都合の良い自分だけの夢の中だ。
次の瞬間には家のリビングに居て、葵はドサリとソファに座り込んだ。随分長いお出掛けをした気分だった。夢なのだから疲れる感覚がある方が変なのだろうか。
亡くなった姉の美佳に会えたのは嬉しかった。病気で苦しむ姿を見ていたせいで、亡くなった事で苦しみから解放されたと、両親も何処かホッとしていたし、葵自身もそう考える様になっていた。
だから実際夢の中の姉が幸せそうだったので、嬉しさで舞い上がったのだ。
なのに思わぬ展開になって、葵は亡き姉のために何かしなければならない気持ちになっていた。
「…何が出来るってのよ。」
言葉にすれば一人芝居ごちて、笑えてくる。その時家の外から大きな音がして、葵はベッドの中で目を覚ました。瞼を開けたら今見たばかりの夢があっという間に失われる気がした。
葵は目を閉じたまま必死になって、今どんな夢だったのか記憶に残そうと思い返していた。
姉の笑顔
4008
お菓子
青年
コピー
もうコピーしない
エレベーター
横付けされた車
サングラスの女
研究所
中年の男
世界…、世界が何て言ってた?
目を開けたらこのうちのひとつか二つしか残らないかもしれない。
それでもなぜか少しでも記憶に残そうと頑張っている。もうどうしてそうする必要があるかを、葵は思い出せないでいた。諦めて目を開けると、日曜日の遅い朝が葵を待っていた。
ああ、近所で家を建てている音だ。この音で起きたんだと葵は大きく背伸びをして起き上がった。流石に10時過ぎているから、もう一度二度寝するには、社会人の葵に日曜日は貴重だった。
立ち上がった瞬間、脳裏に4008という数字が浮かんできた。そう言えば姉の美佳が夢の中で笑ってた。葵は亡くなってから姉の夢を見たのは初めてだった。
「…まったく遅いよ。」
両親から、美佳の夢を見たと自慢げに報告される度に、どこかしら羨ましい気持ちでいたのだ。亡くなった姉にもう会えないなら、せめて夢で会いたいと思うのは自然な事だろう。
階段を降りていきながら、葵は何か忘れている気がした。姉と何を話しただろう。リビングを歩く姉の後ろ姿を見た記憶がある。一階で母が動き回っている音がする。葵はニンマリ笑って、勢いよくリビングに顔を出して言った。
「おはよう。ねぇ、聞いて。さっきね、お姉ちゃんの夢見ちゃった!良いでしょ~。」
母のどんな夢だったのかという声かけに、葵はふと考え込む。何か凄く大事な事を聞いた気がする。でも何だっただろう。
「えーとね、お姉ちゃん歩いてた。ちょっとぎこちなくね。半年も経つのにね?…4008。何だっけこの数字。私、夢の中でメモしたんだ。あー、夢って何で思い出せないんだろうね。凄く大事な事があった気がするのに。」
母親が笑いながら尋ねた言葉に、葵は頷いた。
「うん。お姉ちゃんは凄く幸せそうだった。めちゃ元気そうだったしね。あ、お参りしなくちゃ。」
葵は仏壇に手を合わせながら、笑顔の遺影に向かって微笑んだ。
「お姉ちゃん、夢で会えて嬉しかったよ。また会おうね?」
夢は夢。されど亡き者と会う夢は、単なる夢なのだろうか。
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