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猫王子は悟る
つい最近、私に夫が出来た。
相手は隣国の公爵家の当主で名をカミルという。
噂では血塗れ公爵だの鬼将軍だの酷い言われようだが、カミル本人は非常に誠実な美男子だ。敵に対して容赦がない事からそう言われているのだろうが、私には優しい良い夫だ。ただ一つ残念な事があるとするならそれは彼が常軌を逸した猫好きということだろうか…。
家の中をゆっくりと歩いていれば目につくのはひたすら猫の調度品だ。
壁に架けられた絵。庭の薔薇を生けた花瓶。飾られた彫刻に壁紙とこの屋敷には至る所に猫が居る。
この世界に猫という生き物は存在しているが、それは幻獣のようなものでまず人がお目に掛かることはない。しかし、そんな猫の血を引いている我々猫の獣人には遠に失われた猫の特徴を色濃く遺していた。
頭にある三角の耳、長くしなやかな尾。自分の意思で多少だが伸ばせる爪。人間よりも様々な身体能力に優れ、夜目も利く。
違いと言ったらこれくらいだが、普通の人間からすれば奇異なものらしい。
ひそりと囁かれる声に思わず耳がピクリと揺れた。聞こえないと思っているのだろうが、人間より聞こえの良い私の耳は囁き声を拾ってしまった。
『何故カミル様はあんな獣人なんかと結婚なさったのかしら』
『見て、あの尻尾と耳を。まるきり獣だわ』
『カミル様にはもっと相応しい方がいらっしゃるのに穢らわしい獣と夫婦になられるなんて……』
様々に聞こえてくるのは大半が私に対する敵意だ。
この国の人間は酷く保守的で自分と同種の人間以外の種族を厭うとは聞いていた。しかし、国同士の友好の証として結ばれた婚姻でこうも悪意を向けられるなんて思いもしなかった。
私の想定が甘かったのだけれども。それなりに覚悟してきたつもりではあったけれど、こうも毎日聞かされては少々うんざりする。
足を止めて庭を見つめながらため息を零した時だ。
「フィラース」
名を呼ばれながら背後から抱き締められて思わず尻尾が膨らむ。突然の事に驚いていたが、包んでくれる匂いに相手が自分の夫だと気が付いてホッと息を零す。
「旦那様、後ろから突然抱きしめるのはおやめ下さいと何度も申し上げたでしょう?」
「カミルだよ、フィラース。庭を見つめる君が可愛らしくてつい意地悪をしてしまった。許してくれ、愛しい俺の番」
甘い声音で耳元で囁かれてくすぐったさから逃げる様に耳を伏せる。感情を抑えたいのにゆらゆらと大きく尻尾が揺れてしまうし、無意識に喉が鳴ってしまう。
カミルも私の心情を分かっているからこそ、こうして構ってくるしデレデレとした態度を隠さない。
私達猫獣人は感情を出すのが苦手だ。つい無愛想な態度を取ってしまう事も多く、その為に人付き合いが上手く行かなくて誤解を生じやすいがカミルには関係ないらしい。
「君は素直だな。耳も尻尾も喉の音も俺に触れられて嬉しいと伝えてくれる」
「……そんな事を言うのは同族の獣人達か貴方くらいだけですよ」
「君の気持ちを知っているのは俺だけで十分だ」
私を抱き締めたまま何度もキスをしてくるカミルの行動を擽ったく思いながら彼の腕に尻尾を絡める。
婚約の顔合わせの時から彼はこんな調子だった。
長年上手くいっていなかった国交回復の一環として結ばれたこの婚約に反対する者も多く、またこの国の人間は多くが獣人を嫌っている。国の為ならばと私がこの家に嫁ぐ事になったが、やはり不安は大きかった。
そんな私の前に現れたのが夫であるカミルだ。初対面から私に対して熱烈な口説き文句を告げ、感情の機微も読んでくれた。
美形の彼に熱烈に口説かれた私はあっさり陥落してしまった。だってあれほど求められたら嫌な者などいないだろう。
「フィラース」
優しく名を呼んでくれる甘い声にくるると喉が鳴る。しかし、そんな甘い時間は突然終わりを告げた。
「君にそんな顔をさせた輩は誰だい?」
耳元で告げられた言葉に思わず笑みが引き攣る。嗚呼、やってしまった。
優しくて誠実なカミルだが、唯一例外がある。それは自身が敵だと認識した者に対する苛烈なまでの攻撃性だ。今も私の態度に何やら思う事があったらしい。
「物憂げな君も美しいけれど、そんな顔をさせるのは俺も本意ではない。教えてくれ。何が君にそんな顔をさせたんだ?」
これは質問という名の尋問だ。にこやかに笑っているが、その目に浮かぶのは激情。幸いな事に今まで刃傷沙汰には至っていないけれど、このままでは誰かの首が物理的に飛ぶ日も近いかもしれない。
「少し故郷を思い出していただけですよ」
「嘘だね。故郷を思うような顔ではなかった。誰かに悪意を囁かれたんだろう?」
カミルの言葉に近くにいた使用人達が怯える気配がする。そんな風に怯えるくらいなら初めから私に聞こえるように言わないで欲しい。カミルにバレればこうなる事が分かっているのにどうして学習してくれないんだろう。
はぁ、と小さく溜め息をついてからカミルの背に腕を回して抱き着く。ここは何とかして話を逸さなければ、私がまた執事長に文句を言われる。
「ねえ、カミル。それよりも私とお話ししてください」
「フィラース、話を逸らすんじゃない。誤魔化されないぞ」
「カミルは私と話すよりもそちらの方が大切なのですか?」
「…………」
カミルが渋い顔をしてものすごく考え込む。どうやら余程腹に据えかねているらしい。どうして私が私に悪意を持つ人間を庇わなきゃいけないんだと思わなくもないけれど、いつも胃の辺りをさすっている執事長の様子を思い出して説得を続ける。
「カミル」
強請るように甘い声で啼いて胸に頬を擦り寄せる。彼が好む長い尾をカミルの体にくっ付けて、喉を鳴らして。
「……次はないぞ」
周りに対してだろう。低く呟くとフィラースが私を強く抱き締める。どうやら機嫌を取ることに成功したようだ。これに懲りて私に聞こえるように言わなくなる事を祈るしかない。そう何度も助けてやる程私も心は広くないのだ。
「フィラース……」
耳元で熱を帯びた声が名を呼ぶ。首筋に鼻先を擦り寄せ、軽く噛みついてくる姿はまるで狼だ。彼は人間のくせに狼のような事をする。
喉に軽く噛み付かれて思わず体が震えた。同時に尻尾の付け根辺りを軽く撫でさすられて何とも言えない感覚がぞわぞわと背筋を這い上がってくる。
徐々に本格的になってくる触れ方はまるで褥の中でするもので。
「カミル、こんな所で……」
「幾度言っても聞かないなら見せ付けてやろうと思ってな? 私がどれ程君を愛しているのか」
あ、まずい。これは私に対しても怒っている。私がいつも使用人達を庇うから仕置きの意味合いも兼ねているらしい。
「んんっ」
とん、と腰を叩かれて思わず甘い声が漏れる。猫と同じようにこうして腰を刺激されるのに弱いから。
足腰の力が抜けそうになるのをカミルにしがみついてなんとか体勢を保つ。
「フィラース、俺の愛しい番。俺は君を害する者を赦さない。良くよく覚えておいてくれ。君の為なら君を見下すこの国だって滅ぼしてみせる」
本気だ。
そう思わせるには十分な気迫と声だった。
その苛烈さにぞっと背筋が冷える。実際にカミルにはそれが出来るだけの実力も行動力もあるから困ってしまう。
「あの……そこまでしなくて大丈夫ですから」
「君が赦しても俺が納得出来ないから駄目」
ダメだ、話を聞いてくれない。既に彼の中で決定事項なのだろう。
ふとこの国の国王を思い出す。
『この国の為にも是非カミルと婚姻して欲しい』と頭を下げられ、了承した時には泣いて喜ばれた。あの態度を見るにカミルは国王を相当脅していたんだろう。
もしかしなくても大変な人に嫁いでしまったのでは……?
今更ながらその事実に気が付いて愕然とする私を抱え上げると、カミルは悠々と寝室に向かって歩き始めた。
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