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7.レモンピールの声 ココアの唇
あれは確か、小学校二年生くらいのころだったと思う。夏だった。蝉が姦しく頭上で鳴いていた。本当は早く家に入りたかったのに、鍵を忘れて家を出てしまった恋歌は家の前でぐったりしながら、母がパートから帰ってくるのを待っていた。
母の仕事が終わるのは、夕方六時過ぎ。時刻はまだ四時過ぎ。太陽はじりじりと容赦なく照りつけてくる。
影を見つけてなんとか涼もうと努力をしてはみたものの、そのうち頭がぼうっとしてきた。ふわふわしながら門柱にずるりと背中をもたせかけた恋歌に声をかけた人がいた。
「こんなところでどうしたの?」
高校生くらいだろうか。男の人がこちらを見下ろしている。顔は逆光で見えない。ただひんやりとした手触りの声が耳に心地よかった。
彼は恋歌の額に手を当てると、慌てたように鞄を探り、ペットボトルを出した。水らしいそれがぐい、と恋歌の手に押しつけられる。
促されるまま喉に流し込んだその水からは、ほのかに果実の香りがした。
「しっかり飲んで」
柔らかい声に緊張が含まれる。耳を癒すその声によって脳にわだかまった熱が散らされるような気がして、恋歌は微笑んでしまった。
ずっと聴いていたい声。
絹糸みたいに滑らかで、引っ掛かりのないこの声。
──更科さん、お皿、ちゃんと下げて。お客様がお待ちだから。
「ああ、だから……」
あの人は、この人なのだ。
自分が好きだな、と思っていたこの人の声は、あのときからずっと恋歌の中にあった声だったのだ。
「やっぱり、好きだあ……」
呟いたときだった。彼が顔を背け、深く息を吐いた。
「なんでまだ……好きって言うの」
「上野さ、ん?」
問いかけた恋歌の肩を掴む彼の指先に、力が込められる。
「なにも考えなくて済むと思ったから、映画再生したのに。こんなことならさっさと寝ろって寝かせておけばよかった」
「え、と」
頭がぐるぐるする。彼の一連のはてなな行動が恋歌の中で渦を巻く。
「君は妹だ妹だって、ずっと自分に言い聞かせてきたのに」
言葉の語尾が、ゆらり、と揺れる。
「嫌いたいのに。なんで」
母親が自分を捨てて選んだ男の娘に、どうして彼はこんなことを言うのだろう。
どうして彼は……こんなに苦しそうなんだろう。
どうして私は、真実を知ってもまだ、彼の声に焦がれてしまうのだろう。
どうして。
ただ、迷いの中で強く思った。
痛みに身をよじるような、彼の肩の震えを取り除いてあげたいと。
映画の中で、妹が、泣いている。
お兄ちゃん、と叫びながら泣いている。
その声を耳に収めながら、彼に向かって体を倒す。彼の肩にぐいと額を押しつけると、彼が驚いたように恋歌の体を引き剥がした。
「もう……」
もう、の次が言えないまま、潤んだ目が恋歌を見据える。
次の瞬間、逆に腕が引かれた。
ココアの香りが勝った唇に唇を塞がれながら、今キスしているこの人は、自分にとって兄になるのか、恋人になるのか、どっちなのだろうと、炎天下で焼かれたときみたくふらふらする脳で恋歌は考えたけれど、答えは出なかった。
一方で、今、画面の中で泣いている兄妹の行く先が平穏な結末でありますように、と、混乱にねじれた頭で必死に願ってもいた。
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