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4.逃げるべきだよね
閉じていた瞼を撫でるような柔らかい声が聴こえる。はい、と反射的に応えてから恋歌は勢いよく目を開けた。
恋歌?
史則はいつも恋歌のことを名前では呼ばない。折り目正しく、更科さん、だ。けれど今、彼は確かに恋歌と呼んだ。
驚いている恋歌を史則はきょとんとして見返す。コンタクトを外した彼は、縁が黒いスクエアタイプの眼鏡をかけている。この人、眼鏡の方が似合うかも、と再びくらりとしながら、恋歌は首を振る。
違う違う。今は声以外の魅力を見つけている場合じゃない。
今問題なのは。
「あの、今」
恋歌って呼びましたよね。
言いかけて恋歌は口を噤む。彼は数秒そのままでいた後、あ、と言うように口を開けてから、なにを思ったのかぷいと背中を向けた。キッチンにあるコーヒーメーカーをセットする音がする。顔をこちらに向けないまま、彼は単調な声で告げた。
「再生していいよ。ここからも見えるから」
「あ、えと、あ、はい」
かくかくと頷き、恋歌はリモコンを取り上げる。再生ボタンを押すと厳かに映画は始まった。
だが恋歌の気持ちは停滞したまま、映画に入っていってくれない。
だっていつもは更科さん、なのだ。バイトを始めてから一度だって名前を呼んでもらったことなんてない。いやそもそも、彼は恋歌の名前すらちゃんと覚えていないと思っていた。
──恋歌、好き。
そう言ってもらえたらもう往生できる、そう思ってさえいて、それでもそんなこと絶対起きるわけがない空気を確かに感じていて。
なのに、その彼が、恋歌。
これはまさか、まさかが起きるのだろうか。
ちらっと思ったが、マグカップを持って戻って来た彼の顔がいつも通り足跡一つない砂浜のごとく静まったものだったため、その思い付きを恋歌は早々に否定した。
じゃあなぜ彼は呼び捨てにしたのだろう。
訊きたい。訊きたいけれど、こたつに戻ってきた彼は映画に全神経を集中しているようだ。この人は映画の途中で話しかけても大丈夫なタイプだろうか。話しかけたとたん、あのいい声でめちゃくちゃ怒られたりしないだろうか。
「更科さんは」
それも悪くない、などと妄想していた恋歌の意識を呼び戻したのは、恋歌が愛してやまない彼の甘い声だった。
「この話、どう思う?」
「どう……あ、噴火しそうな兆しがあったんだから、すぐ逃げるべき、でしたよね」
地質学者の彼がさんざん警告を発したというのに、街の人間は誰も彼の言葉に耳を傾けない。それゆえに避難が後れ、画面の中では町に火山灰が降り注ぎ、土石流が居住区に迫ってきている。緊迫した場面だ。多分、今が一番この映画で釘付けになっていいシーン。
「そうなんだよね。逃げるべきなんだよ。ヤバいって思ったらさ」
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