6.ごめんね

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6.ごめんね

 彼が今、その名前を口にする理由がまったくわからなかった。  桐沖。それは母が。 「あ、の……」  父と結婚する前の姓だ。  詳しくは聞いてはいない。いないが、母が父と結婚する前に家庭を持っていたことは知っていた。父と出会ってその人とは離婚をしたのだとだけ、母から聞かされていた。  その、母の最初の夫の苗字が、桐沖。 「珍しい、一致、ですね」 「ほんと、珍しい一致で済めばよかったんだけどね」  仕事中と変わらない、淡々とした声音で彼は言う。こくん、と音を立ててココアを飲み、彼はふうっと息を吐いた。 「俺は結構詳しく聞かされてたんだ。俺と父さんを置いて出て行った母親が再婚したこと。今の苗字がなにか。娘が生まれたことも。  更科もさ、桐沖と同じくらい、珍しい苗字だよね」  言われている意味がわからない。  いつしか観ることを放棄された映画の中では、妹が泣いている。  どうして、どうして、とフェンスを掴み、揺さぶりながら泣いている。 「君の履歴書見たとき、すぐわかった。更科恋歌。同姓同名を疑うにはあまりにも珍しすぎる名前だし……なによりさ、母さんの面影あるから。まあ、性格は全然違うみたいで、君のほうが天然ぽいけど」 「それ、あ、の……」  声が震える。  好きか、と訊かれた。好きだ、と答えてしまった。  ただ、恋歌の告白は……彼が確実に望まぬものだ。  だって、彼はおそらく母を、そして恋歌のことも憎んでいる。 「ごめ、んなさい。あの、私、帰ります。あの」  頭の中がぐちゃぐちゃでどうにもならない。混乱しながら立ち上がりかけたとき、ふっと腕が伸びる。 「ごめんね」  いつもホールでてきぱきと仕事をこなす長い指が、恋歌の右肩をためらいがちに押し留めていた。 「言わずにいようと思ってた。でもやっぱり言わないわけにはいかない。君に好かれちゃいけないんだ。俺は」 ──ごめんね。  彼の、ごめん、を聞いたとたん、なにかを思い出した気がした。  彼の服に移り香していたのだろうか。レモンピールの香りがふわりと鼻先をくすぐる。 ──ごめんね。僕が来たことを、お母さんには黙ってて。  伏し目がちに笑った人。顔は覚えていない。でもその声だけが記憶の底から立ち上がってくる。
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