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八 麻布一番ビル
事件後の翌日から岩谷は忙しくなった。久本も柴田も出社しない状況であったので、女子社員達は墨子も大島にも仕事を任せるようになっていた。そんな二人は朝、コロンヘチマの小沢からお礼をしたいと言われたが遠慮し辞退していたが、彼は昼休みの屋上に顔を出した。
「やっぱりここにいた! これ、うちの商品と、カステラなんだ。どうぞ受け取ってください」
「そんな、お礼なんていいのに」
「でもせっかくなのでいただきますか?」
墨子と大島が感謝しつつ受け取ると小沢は笑顔を見せた。
「いやいや。それよりもここだけの話だけど」
二人が包んだ商品は、いつもよりも丁寧だと相手から褒められてしまったと笑った。
「うちの事務員には内緒だよ? それにしても助かった……」
「同じビルの仲間ですものね」
「また何かあったら相談してくださいね」
墨子と大島の笑顔に彼は目配せした。
「こちらこそ! 今度、うちにできることがあったら何でも言ってね」
小沢は爽やかに去っていった。墨子と大島はその背を見ていた。
「久本さんと柴田さんは、あの人に憧れていたんですね」
「だからと言って、切り刻むなんて、ね……そんな女の人を好きになるはずないよね」
大島はそういうとおにぎりを食べた。墨子はふと大島を見た。
「どうしたの」
「その……山口さんとはどうなのかと」
「な、何を言い出すの?!……ああ、恥ずかしい」
大島は顔を手で仰ぐが、墨子は真剣だった。
「だって、山口さんは大島さんには優しいですよ」
「どこが? 私と話してもお地蔵さんみたいじゃない」
「そんなことありませんよ!」
墨子は訴える。
「山口さんは私の時は『ありがとうございます』って言ってくれるんですけれど、大島さんと時は『ありがとう』ですもの」
「同じじゃない」
「違います! 親しみがあるじゃないですか」
そんな話を楽しく咲かせた二人は、午後の仕事に取り組んでいた。
◇◇◇
……全く、何してくれるのよ。
墨子と大島をいじめるつもりが、返り討ちを喰らった女子社員のことを上沼は怒っていた。そのせいで仕事も増えたが、上沼は二人に投資を進めていたことを気にしていた。
……でも投資はやめさせないわ。だって私が困るじゃないの。
墨子と大島は気に入らないが、今はお金の方が大事である。上沼はこの日の会社帰りの路地裏で彼に会っていた。
「今月の分です」
「確かに預かりました」
「あの、私の投資したお金は、今、どれくらいになっているのですか」
「お待ちくださいね」
彼は手帳を取り出し、口頭で告げた。その金額に上沼の頬は染まる。
「そんなに増えたんですか」
「ええ。仲間を増やせばもっと増えますよ」
彼の優しい言葉を聞いた上沼は頷いたが、最近、また仲間がやめたと語った。
「生意気な新人のせいなんです。その女が嫌でみんな辞めてしまうんです」
「だったらその女を辞めさせればいいじゃないですか」
「社長のお気に入りなんですよ」
「へえ……お気に入りね」
上沼はベラベラと墨子の話をした。見習い事務員なので同情しているだけと彼女は肩を落とした。
「片親で仕事も遅いし、見た目も平凡な娘です。もう一人の生意気な娘は正社員ですけれど、きっとあの娘に騙されているだけです」
「片親ですか……それは由々しきことですね」
栄二の様子をきいた彼は、満足げである。そして二人は次回の約束をして別れた。
……片親の娘にのぼせているのか。これは面白い。
このまま常道に伝えても良いが、情報料をもっと得るには、さらに詳しく調べる必要があると彼は思った。
……それに上沼女子の支払いも、いつまで持つかな?
投資と言っているが、実際は何もしていない。さらに彼女に負わせた指輪の借金の返済はだんだんキツくなるはずである。彼はその次の罠を考えていた。
東京の怪しい夜は、彼の足取りを楽しくさせていた。
◇◇◇
岩谷の社長室では、栄二がドルのことで悩んでいた。山口に不正を調べてもらっているが今はこのドルをどうにかして円にしたいと思っていた。不正が疑わしい副社長に相談するのは嫌だった栄二は、及川の前で頭を抱えていた。
「他の会社はどうしているのだ」
「同じですね。まあ、支払いをドルでもいい会社と取引するしかないですね」
銀行でドルを円にする方法もあるが、多くの手数料がかかると及川は語った。
「くそ……せっかく輸出の道があるのに」
「どんどん注文は入っていますものね」
鉛筆を皮切りにアメリカの百貨店から日本製品の他製品の注文が来ている。これはうれしい悲鳴であるが、これは全部ドルである。円が欲しい栄二は悩んでいた。
そんな栄二が帰る時、玄関で墨子を見かけた。墨子は誰かと話をしていた。
「どうした。墨子」
「あ、社長」
すると彼は栄二に顔を向けた。
「岩谷さんですか? 自分はコロンヘチマの社長の天田と申します」
「どうも」
天田は墨子に世話になったとお礼を言っていたところだと話した。墨子も栄二も謙遜し、彼を見送った。
「……さて、君も帰るところか」
「はい」
「おほん! そのだな、最近の話をだな」
墨子を夕食に誘いたい栄二は、背後にやってきた及川をチラとみた。及川はニコッと笑みを見せた。
「墨子さん。実はお願いがあるのです。お時間ありますか」
及川は接待に使うお店を探している最中であり、一緒に行ってくれないかと頼んだ。
「私ですか? でも」
「母上が待っているのか」
「いえ……今夜は夜勤ですので」
「では行きましょう! さあ」
こうして及川は二人を誘い、いつも行く鰻屋にやってきた。奥の部屋にやってきた墨子は早速感想を言った。
「静かな部屋ですね、接待するには良いと思いますよ」
真面目な墨子が眩しい栄二はおしぼりで手を拭いた。
「そうか……そうだな。お前のいうとおりだ」
「ええと、注文しますね。みんな、特上で」
さっさと注文した及川であるが、実はこの店の他の席で知り合いを見かけたと語った。
「ちょっと挨拶してきます」
「はい! 社長、お茶をどうぞ。熱いですよ」
「本当に熱いな? そ、それよりも」
栄二は服を引き裂いた二人の女子社員の話をした。二人は退職になったと語った。
「そうですか……」
「お前のせいじゃないぞ」
「それはそうですが」
自分が入った途端、五人も辞めているこの事態にさすがの墨子も俯いた。栄二は焦った。
「気にするな。首にしたのは俺だ」
「でも」
「お前は立派な見習い事務員になるんだろう? だから俺も頑張れるんだ」
「でもお疲れですね。顔色が悪いですもの」
「そうなんだ……実はな」
鰻重ができるまで栄二はドルの話をした。墨子にも事情がわかってきた。
「そうか……ドルよりも円がいいですよね」
「そうなんだよ。我が会社のドルが円になったら本当に助かるのに」
墨子も一緒に悩んでいたが、この場に及川は戻ってきた。二人はドルのことを考えながら黙々と食べるので及川は驚いた。
「あの、墨子さん、鰻がお口に合わないのですか」
「いいえ? 美味しいです、それよりもドルです」
「そうだ、ドルだ」
……悩みも一緒なんだな。
同じような顔つきの二人に及川は思わず関心していた。静かな食事であったが栄二が嬉しそうにしていたので及川もホッとしてこの食事を終えた。
帰りは車を拾い、墨子の家まで送った栄二と及川は、翌朝もやはり資金のことで悩んでいた。それは墨子も同じだった。
「はあ……」
翌日。墨子は頼まれて郵便局に来ていた。待っている間にふと見覚えのある女性を見つけ互いに会釈した。
……あの人は、同じビルの人だわ。でもどこの会社だろう。
「日本郵船さん。お待たせしました」
「はい」
……そうか、あの人は日本郵船の人なのね。
そんなことを思った墨子は昼休みに、この麻布一番ビルに入っている会社について大島に尋ねた。
「それは俺が教えてあげよう」
「小沢さん?」
「俺も昼休憩なんだよ」
悪戯そうな顔で小沢は教えてくれた。
「大正海上生命さん、(株)東京グラフは出版社だよ。そして(株)光プロは芝居小屋をしている芸能会社だよ」
「芝居小屋? 私、何の会社かずっと気になっていたんです」
驚く墨子に大島も目をぱちくりさせた。
「私も気になっていました! そうか……あとは、コロンヘチマさんと、うちと、そして日本郵船さんですよね」
「そう」
「……あの、日本郵船さんて、何の会社なんですか?」
わからない墨子に小沢も頭をかいた。
「俺も詳しくないけれど、輸入の会社のはずだよ」
「輸入! それは外国のものを買っているってことですか」
「そうだね」
「どうしたの、墨子ちゃん」
……岩谷と逆なんだ……だったら。もしかして。
「すみません。ご馳走様です」
弁当を急いで食べた墨子は、岩谷に戻った。そして栄二がいる社長室に入った。
完
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