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一 優しすぎる天使
「痛い!」
「ぼうっとしているそっちが悪いんだよ」
……ああ。まただわ。
大正時代。東京府渋谷市の道。麦わらのカンカン帽子の人が多く行き交う駅前の通り。会社事務員の安田墨子は転んだ足をさすりながら立ち上がった。墨子にぶつかった男は謝りもせず足早に駅に消えている。墨子はそれでも歩き出した。
……どうしてこんなにぶつかるのかな。
墨子は確かに小柄であるが、前方はしっかり見て歩いているつもりである。腕と足の痛みを抑えたおさげ髪の着物姿の墨子は、風呂敷包みを手に持ち、ガス灯がついた夕暮れの街を家へと帰っていった。
「ただいま」
「おかえり、疲れたでしょう。あら、どうしたの」
古い長屋の家で待っていた母は、墨子の手の傷に気がついた。
「うん。ちょっと、ぶつかって転んだの」
「またなの? 人混みは気をつけないとね」
母の心配顔に大丈夫だよと、笑みを見せた墨子は、自室に来た。
……うう、腕を擦りむいたし。足も痣になってるわ。
墨子は物心ついた時から父がいない家庭で育った。だが幼い頃は祖父母がおり、母も看護婦の仕事をして墨子を育ててくれた。学校でいじめられたこともあるが、墨子は素直で優しい娘に育っていた。
……でも、着物がこんなに汚れてしまったわ。明日、何を着て行こう。
女学校を出た墨子は、現在は会社員である。成績優秀であった彼女は、事務員を希望していたが、片親の彼女は貧しいとみなされ、どこの会社も信用してくれず就職できなかった。やっと見つけた今の会社でも墨子は事務であるが、見習い社員であり、お金を扱わない計算仕事であった。
「墨子、お夕飯ができたわよ」
「はい、今行くわ」
そんな墨子は母と夕飯を済ませ、着物の汚れを取った。
……乾かないかもしれないけれど、他に着るものがないし。
まだ入社したばかりの墨子には衣服にお金をかける余裕は全然ない。この夜、転んだ時に擦りむいた手足の痛みを感じながら、墨子は眠りについた。
翌朝。墨子は会社に出社した。
「この計算をお願いね。あと、これをタイプライターで清書して」
「はい」
正社員の女先輩の上沼は、どんどん墨子に仕事を押し付けきた。
「後、この手紙を郵便に出してきて。あ! 午後にお客様が見えるから、お茶菓子も用意しておいてね」
「は、はい」
……こんなにたくさん? でもやらないと。
せっかく雇ってくれた会社である。真面目な墨子は素直に仕事をこなしていた。墨子はそろばんを取り出し、計算を始めた。
「おい、誰か、お茶を淹れてくれないか」
「安田さん。お願いね、新人なんだから」
「はい」
全然使わない鉛筆を丁寧に削っていた上沼はそう墨子に指示をした。計算の途中であるが、墨子はお茶を淹れるために席を立った。給湯室では他の女子社員達がおしゃべりをしていた。
「あんた何よ。仕事はどうしたのよ」
「ここでサボるつもり?」
二人に囲まれた墨子は、おずおずと説明した。
「部長にお茶を頼まれたので淹れにきたんです」
すると二人は、急に忙しそうに背を向けた。
「私達はダメよ。忙しいのよ」
「そうよ。あなたが頼まれたんでしょう」
そんな二人は出ていった。墨子は湯呑みを用意した。
……あれ? これは、お菓子の包み紙だわ。ここで食べていたのかしら。
思えば二人は口元がもぐもぐと動いていた。そんなことを思いながら墨子はお茶を淹れ、他の社員にも配った、
……さあ、計算をしないと。
やっと自分の仕事に戻れることになった墨子であるが、あっという間に昼休みになった。
「安田さん、電話番をお願いね」
「はい」
「さあ、みんな、行きましょう」
上沼達はお弁当を片手に社外に行ってしまった。会社の裏には庭があり、そこで食べるのである。
……今日も行けないわ。仕事が進んでいないし。
仕事が溜まっている墨子は、休みも取らず計算をしていた。そして昼休みが終わり、午後の仕事になった。
「安田さん。私、お化粧室に行っているわ」
「はい」
一日に何度も化粧を直す上沼であるが、それよりも墨子は構わず仕事を進め、和文タイプライターで清書していた。カタカタと入力するのは慣れてくると楽しかった。
……ん。この文章は、間違いではないかしら。
上沼から預かった文章は『大阪の田中屋』と書いてあるが、墨子は『中田屋』ではないかと思った。
……でも、田中屋さんも取引先にあったわね、神戸だったと思うけれど。
作業が止まってしまった墨子は、上沼に尋ねようとしたが、彼女はなかなか戻ってこない。そこでその文章を書いた課長に直接、尋ねた。
「課長。ここは『田中屋』さんでよろしいのですか? 前に書いた時は『中田屋』だったと思うのですが」
「ああ、そうか。それは『中田屋』だった。直しておいてくれ」
「はい。わかりました」
……良かった。間違いに気がついて。
後から修正になり、書類の書き直しになるのは御免である。墨子はこうして午後も仕事を進めていた。そんな中、来客となった。やってきたのは二人の若い男性。社長は笑みで出迎えた。
「岩谷様。お久しぶりございます」
「ああ、そちらもお元気そうで」
「栄作様、部屋は向こうです」
やってきた男性二人は、事務所を見渡した。応対する社長が珍しく低姿勢である。事務所にいた女子社員達は一斉に見つめた。しかし、墨子だけは手を止めずに計算をしていた。
……これで、終わり! さて、お客様が来たのね。お茶を淹れないと。
周囲の声だけでそう判断した墨子は仕事の手を止め、お茶を出そうとした。
「ここわ。私がやるわ」
「え」
上沼は頬を染めて立ち上がった。墨子は不安で小首を傾げた。
「でも。新人の仕事じゃ」
「何を言い出すの? 大切なお客様を、あなたなんかに任せられるわけないでしょう? それにあなたはまだ仕事が終わっていないのだがら。それを続けなさいよ」
「わかりました……」
……これは、上沼さんに頼まれたお仕事なんだけど。
墨子の仕事はとっくに終わっている。今やっているのは上沼の仕事だった。しかし上沼は当たり前の顔でお茶を淹れにいった。墨子は客の顔を見ていないが、背後では他の女子社員のささやきが聞こえた。
「素敵な人ね。私もお茶を淹れたいわ」
「私、手伝ってくる」
「私も!」
仕事をそっちのけの女先輩達に呆れるが、墨子は仕事がたくさん残っていた。
……まあ、いいか。この隙に仕事を終わらせよう。
その素敵な男性客は社内を見渡すと奥の応接間に入っていった。男性社員が立って挨拶し、女子社員が熱い目で見つめる彼であったが、墨子だけは仕事を淡々とこなしていた。
◇◇◇
応接室では社長が二人に椅子を勧めた。
「お忙しい中、お越ししただき、光栄です。ですが、岩谷様。この度はどういうご用件で」
汗だくの社長に岩谷栄作は上座の彼は長い足を組んだ。
「早速ですが、この会社は相続の関係で、長らくあなたに経営を任せていましたが、先日の家族会議で私が任されることになりました」
「栄作様がですか? そ、それは」
「社長には長い間、お世話になりました」
「そ、そうですか」
辞令を手にした社長は顔色を青くした。その顔を彼は見逃さなかった。
「……わかりました。あ、今、お茶を淹れさせますね」
社長は額の汗を拭いながら一旦部屋を出た。部屋にはお茶を持った上沼が入れ替わりで入ってきた。
「どうぞ」
……素敵な見なりだわ、ああ。絶対お金持ちよ。私、こんな人のお嫁さんになりたい。
上沼は頬を染めながらお茶を出した。だが栄作は他のことに夢中の様子である。彼の隣席の部下の及川は、上沼に紙袋を渡した。
「これはお土産です。どうぞ皆さんで召し上がってください」
「ありがとうございます。私、上沼と申します」
受け取った上沼は嬉しそうに退室した。閉じたドアの音を皮切りに、二人は口を開いた。
「はあ。しかし。こんな会社をなぜ俺が」
「それは言わない約束です」
面倒そうな栄作を部下の及川はちらっと時計を見た。そして戻ってきた現在の社長とこの日は簡単に打ち合わせをして二人は会社を後にした。
「お疲れ様でした」
「今日は挨拶だけだからな。それにしても、会社の様子はどう思う?」
「これからでしょうね」
道を歩く栄作は眩しい日差しに帽子のツバを直した。
「栄作様が手直しされるのですから、きっとすぐですよ」
「そうだと良いのだが……」
岩谷栄作は、明治の煙草で財をなした岩谷財閥の後継者の次男である。企業経営は父と兄に任せ、自分は軍の秘密警察の任務で長く東京を離れていたが、今年から東京の勤務に戻ってきた。
岩谷財閥は他会社を多く経営しており、今回の、この岩谷合資会社は叔父が経営をしていたが、昨年亡くなり、誰が相続するか難航していた。
栄作の兄はすでに実家の会社を継いでいたため、この会社を兼任するのは困難である。栄作の父は次男にも経営を学ばせたいとこの会社を任せることに決めた。
軍人であり商売は向いていないと断ったが、父親の命令を絶対である。彼は及川と共に会社経営をすることになってしまった。
……はあ、こんなこと早く終えて、軍の仕事に戻りたい。
軍の上層部も現在の任務をしながら社長業をすることを承認してくれた。岩谷財閥の力のなせるものであるが、栄作はできることなら会社経営はしたくなかった。
……次男として、経営も学べというのか。くそ。
父と兄の思いもわかるが、栄作は面倒に思っていた。歩く靴音は大きく東京の街に響いていた。
◇◇◇
「ねえ、素敵な人だったわね」
「あの様子じゃまた来るんじゃないの」
彼の正体を知らない女子社員がおしゃべりをしている間を、上沼が間を通り、上司に報告した。
「社長。私、お茶を出したのでお菓子をいただいたのですが、私だけでは申し訳ないので、みんなに配ってよいですか」
「ああ。悪いね。そうしてくれるかい」
上沼はまるで自分がもらったものを分けてやる、というような口ぶりで社員達に配り出した。最後に墨子になった。
……二個、残っているけれど。
「安田さん。あなたは正社員じゃないので、あなたの分はないわ」
「そうですか。あの。上沼先輩」
お菓子の事は気にしていない墨子は、上沼に仕事の質問をした。
「この請求書をこの封筒に入れて送るように言われたのですが、入るには入るのですが」
封筒に折って入れても余裕がなくパンパンになってしまうと墨子は語った。しかし上沼はそれで良いと言う。
「届けばいいのよ。あのね、いちいち文句言わないでもらえる? あなたは言われた通りにすればいいのよ」
「わかりました」
この日、昼休みも返上し、仕事をしている墨子の前で、正社員の女性達は平気な顔でお菓子を食べながら談笑していた。朝から何も食べていない墨子は、仕事をこなしていた。
……ええと。あとはこれで終わりだわ。
集中してこなした墨子は、これでやっとやるべき仕事を終えた。
「あ、そうだ、安田さん。この書類にハンコを押しておいてくれない」
「え? 今からですか」
「そう。明日の朝使うのよ」
何もしていない彼女達は他にも、客人や自分たちが使った湯呑みを片付けるように言った。
「安田さん、後はお願いね」
「私達は用事があるから」
他の女子社員達も退社時刻だと言い、片付けを墨子に命じ帰っていった。この様子を若い男性社員も当然の顔で見ていた。
「君。早く片付けてくれ。それに、残っているなら、この書類の枚数を数えるのと手伝ってくれ」
「はい……」
……仕方ないわ。私は雇ってもらえるだけでもありがたいもの。
上沼や正社員の女子達は、この会社の親戚や取引相手の娘達である。そのため上司も彼女達の態度を多めに見ていた。その分のツケが全て墨子に来ていた。
この日も帰りは真っ暗な夜である。
……疲れた。早く帰りたい。
すると前から歩いてきた男と肩がぶつかった。
「きゃあ」
「前を向いて歩けよ!」
「すみません」
……ああ、またぶつかったわ。肩が痛い。
疲れもあって前方不注意であったかもしれない、と思った墨子は疲れてボロボロで帰宅した。そんな墨子は、休日、母の勤務先の病院に来ていた。
「みんな。今日はどの本がいいの」
「こっちを読んで」
「ダメだよ。この本からだよ」
「あらあら。順番に読むから。待ってね」
母の勤務先の病院は小児病棟がある。入院生活で心細い子供達のために墨子は昔から奉仕活動に来ており、この日も本を読み聞かせをした。
子供達の親は遠方の人も多く、入院費用を稼ぐために見舞いに来ることができない親もいた。それを知る墨子は、看護婦長の頼みもあり、こうして休日には本を読みにきていた。
「『……と、王子様とお姫様は幸せに暮らしました』」
「ねえねえ、次はこれを読んで」
「私の番なのよ」
可愛い子供達は、読んでくれとせがむが、昼寝の時間になった。
……みんな、元気になってくれるといいな。
励ましもあるが、子供達との触れ合いは、墨子の癒しの時間になっていた。仕事で辛い日々もあるが、墨子はこんな日常を過ごしいていた。
そんなある日、墨子は職場で叱られた。
「あのね、どうして書類の誤字を私に聞かないのよ」
「そ、それは、先輩が席にいなかったので」
「嘘言わないで! あなたのせいで嫌味を言われたわ」
墨子が毎度、誤字を確認してくるので、上沼は上司に何をしているのだと呼び出されたと墨子を責めた。
「これからは必ず私を通して質問しなさい、わかったわね」
「……はい」
平謝りをしている墨子に上沼は憎々しげに腕を組み、見下ろした。その時、二人に声がかかった。
「あの、上沼さん。お電話です。届いた請求書のことで」
「私? はいはい」
相手は素敵な男性らしく、上沼は気取った声で電話に出た。
「もしもし、はい。請求書を送ったのは私です。え? 中身も切ってしまったとは」
……あの請求書だわ。
上沼の指示で送った封筒には書類がキツキツで入っていた。このため開封した時に、中の請求書も切ってしまったと相手は電話で怒っていた。こうなると思っていた墨子を前に上沼は平気な顔で言い放った。
「すみません。今回は新人に任せたこんなことになってしまって。はい、大至急、本人に届けさせますので、はい! 申し訳ありません」
上沼はそう言って電話を切ると、墨子に新たに書き直させ、取引先へ持って行けと言い出した。
「なんてことをしてくれたのよ! 先方はカンカンに怒ってお待ちなのよ。早く行って」
「わかりました」
他の女子社員も墨子を助けず、笑って見ていた。墨子は怒鳴られながら会社を出た。ハイカラなモダンガール達が、楽しそうに歩く会社街を、粗末な着物姿の墨子は急いで向かった。
……責任はともかく、相手の人は待っているんだもの。
暑い日差しの中、墨子は駆け足で取引先の会社にやってきた。すると玄関前に女子社員が半べそをかいて立っていた。汗だくの墨子は彼女に尋ねた。
「すみません、私、岩谷合資会社の請求書を届けにきた安田と言います」
「あ、こちらこそ、ごめんなさい」
……そうか。この人が開封した時に、中身も切ってしまったのね。
この様子から彼女は上司に叱られたのだと墨子は同情した。
「謝らないでください、こっちの送り方が悪かったんです」
「そんなことありません! 私が取りにいけなくちゃいけないのに」
「いいのです、まず、これをどうぞ」
謝ってばかりであるが、急いでいるはずである。墨子は彼女を促した。
「助かりました! あの。ちょっとだけここで待っていてくださいね」
彼女はそういうと会社に入り、そして戻ってきた。
「本当に助かりました。私のせいでごめんなさい」
「いいえ。こちらこそ迷惑をかけました」
「あの、これなのですけど」
彼女は小さな紙袋をくれた。
「頂き物のビスケットが少しだけなんですけど、食べてください」
「いいえ。いただけないです」
「いいのです! あ、まずい、では、安田さん。これで」
彼女は少し笑みを見せて会社に戻って行った。墨子は歩きながら紙袋をそっと見た。大きなビスケットが一枚とお礼の手紙が入っていた。彼女は北口という名前のようだった。
……でも、よかった。届けることができて。
受け取った紙袋を大切にしながら墨子は会社に戻った。すでに上沼達は退社していた。
「あ、戻ってきたのか。悪いがこの計算をしてくれないか」
「はい」
この日も残業の墨子であるが、北口にもらったビスケットを密かに食べた。
……美味しい。そうだ、今度お礼の手紙を書けたらいいな。
あの様子だと彼女も墨子と同じ立場のようである。墨子は仲間ができたようで嬉しかった。こんな過酷な仕事を墨子は辛抱していたが、頑張り屋の彼女にもだんだん疲労が溜まっていた。
「墨子。お前、大丈夫なのかい」
「うん、やっと慣れてきたし」
そうは言っても墨子の目の下にはクマができており、昼食も取れずに痩せてしまった。看護婦の母は、無理をして勤務している墨子を案じていたが、墨子は平気なふりをした。
「本当かい、それに、その腕はどうしたの」
「これ? 昨日、ぶつかって転んだだけよ」
「またかい」
「うん。でも大丈夫よ」
……簡単に辞める事はできないし。
今の墨子に選択肢はない、とにかく頑張るしかないと会社に向かう墨子を、看護師の母は心配そうに見ていた。
この日も墨子は仕事をしていた。隣の席の上沼は珍しく仕事をしていた。その時、課長が声をかけてきた。
「おかしいな……ここにおいてあった在庫表を知らないか」
……あれ、上沼さんが、昨日使っていたと思うけれど。
しかし自信がない墨子はそれを口にしなかった。上沼も何も言わない中、女子社員達は知らないと一斉に答えた。課長は弱った顔で探していたが、会議に呼ばれて席を外した。
「ねえ、安田さん。悪いけど、郵便物を見てくれない? 待っている書類があるの」
「わかりました」
上沼に言われた墨子は玄関にある郵便ポストを確認してきた。そして自分の机の戻り上沼に何もなかったと報告した。
「そう、ありがとう。じゃあ、仕事を続けなさい」
「はい」
笑顔の彼女が気になったが、墨子はそろばんで計算をしていた。やがて事務所に戻ってきた課長はやはり在庫表がないと、騒ぎ出した。
「黒い背表紙なんだ。みんな、探してくれ」
「私が探しますよ」
上沼は自ら言い出し、机の周囲を探し出した。しかし机の上にはなかった。
「もしかして。間違って机の中に入れている人がいるかもしれないです。みなさん、ちょっと拝見しますね」
そういうと上沼は女子社員から確認始めた。墨子は全く手にしたことがなかったので調べもしなかった。
「では安田さんの机も見ますね。まあ、これは何?」
「え?」
入っているはずがないのに、なぜか入っていた。上沼は大騒ぎをした。
「まあ? 他にも、なんですかこれは。お菓子の食べかすもあるわ」
「だらしないわね」
「わ、私は知りません」
だが、犯人にされた墨子は、課長に叱られた。
……そうか。私がいない隙に、ここに入れたのね。
しかし証拠はない。墨子は悲しみに心で俯いていた。その顔を上沼や他の女子社員は嬉しそうに見ていた。
この日、墨子は会社をもう辞めようと思いながら帰宅した。母は夜勤があり不在だった。墨子は泣きながら一人の布団を濡らした。
翌朝、墨子は休日であったので小児病棟にやってきた。そしていつものように本の読み聞かせをした。終えた墨子は、すでに母は帰宅しているはずなので、このまま病院を帰ろうとしていた。
「いつもありがとう、墨子ちゃん」
「婦長さん。こちらこそ、母がお世話になっています」
「ちょっといいかしら。お話があるの」
墨子を呼び止めた婦長は、子供の頃から墨子を知っている人物である。彼女は話があると墨子を部屋に呼んだ。そこには母がいた。
「お母さん、帰っていなかったの?」
「ええ。お前が心配だから、相談をしたのよ」
「いいから。墨子ちゃんはここに座って」
お茶を出しながら婦長は最近の墨子の仕事のことを尋ねてきた。墨子は母には言わずにいた職場いじめの話を打ち明けた。黙って聞いていた墨子の母はこめかみに血管を浮かせてきた。
「言い返せない私が悪いんです。もう辞めようと思います」
「そうよ! お前をそんな目に遭わせるなんて、許せない」
「安田さん待って。いいですか。墨子ちゃん、まず。それはあなたのせいではないわ」
婦長は真顔で話し出した。それはかつて、入院していた患者の話であった。
「その患者さんは墨子ちゃんのような若い娘さんだったわ。男の人にぶつかってしまって、頭を打って大怪我をして入院していたの。墨子ちゃんも、よく男に人とぶつかるそうね」
その患者も普段から人にぶつかるし、混んでいる電車では触られた経験があると婦長は語った。
「見た目も大人しい感じのお嬢さんでね。それもあって普段から断れなくて、嫌な役目を押し付けられるとか」
……私と同じだわ!
婦長の話は墨子の毎日と一緒である。婦長は墨子の驚きを見逃さなかった。墨子の母は、婦長の横顔を見た。
「婦長、その話は娘と関係ないのでは」
「あるんです。その患者さんも墨子ちゃんは、見た目が大人し過ぎるんです」
その患者も一見、地味であり、人に頼まれても断れない性格だったと婦長は語った。
「何度も言いますが、決してあなた達が悪いわけではないの。でも、あの時のお嬢さんは、お父様が心配なさってね。思い切って外見を大人っぽくしたの。そうしたら一切、ぶつかることがなくなったそうよ」
「そうなんですか……」
……私の見た目が地味なのが、原因だったのね。
幼い頃からお世話になっている婦長には隠せない墨子は、母にも言っていなかったことを正直に明かした。
「私は触られることはありませんが、昨日は歩いているだけで『邪魔だ』って、知らない男に人に怒鳴られました」
「やっぱり……」
婦長は墨子の心配そうな目に、ため息をついた。
「あなたが大人しそうだから、悪い人はあなたが言い返さないと思って、それでいじめるのよ」
「そうなのですか」
「ええ。私なんか人にぶつかったことなどありませんよ」
気の強い看護婦を束ねている婦長に、墨子は信じられないと息を呑んだ。墨子の母も顔をあげた。
「だからね。墨子ちゃんがその会社を辞めても、他の会社でまた同じことが起きます。だから辞める前に対策をしてみましょう」
「対策? でも婦長、娘はどうすればいいのですか? 性格を治せばいいのはわかっていますが」
「大丈夫。私に任せなさい」
婦長は紙を手にした。
「ここに指導内容が書いてあります。これは当時のお医者様の助言です」
墨子と母は手紙を広げた。そこには詳しく記してあった。
「え? この通りにするのですか」
「でも。こんなお世話になるには」
遠慮している二人に、婦長ははっきり言った。
「いいのです! あなたはいつも奉仕活動をしてくれているから、その店の人はみんな協力してくれます。さあ、辞めるのはその後でもいいじゃないですか」
……そうかもしれないわ。
不安な墨子であるが、母も案じて勧めてきた。せっかくの好意であるので墨子は辞める前に、手紙の指示通りにすることにした。
◇◇◇
……ここなの?……高級そうだわ……
「墨子ちゃん? うわ、来てくれたのね」
地図にあった美容室の前で戸惑っていた墨子の手を、少女はキラキラした目で掴んできた。
続く
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