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二 笑顔を封印
「まあ。あなたは」
「待ってね。お母さん! 墨子ちゃんが来てくれたよ」
最近まで入院していた嬉しそうに少女は手を引き、墨子を招き入れた。高級美容室の美容師の母親は、墨子に頭を下げた。
「娘がお世話になりました。入院中、私は忙しくて全然お見舞いにいけなかったんです。でもうちの娘を励ましてもらって。本当にありがとうございました」
「いいえ。本を読んだだけですから」
遠慮する墨子に、美容師は首を横に振った。
「いえいえ。娘はおかげ様で本が好きになったんです、さあ。どうぞ、婦長さんから話は聞いていますので」
墨子はあっという間に椅子に座らされた。美容師は鏡越しで語り出した。
「墨子さん。あなたのお髪は本当に綺麗です。それにお顔立ちは本当に優しそうだわ」
「は、恥ずかしいです」
頬染める墨子に美容師は仕事の顔で全体を見た。
「本当のことよ。でもね。世間の人は、良い人ばかりではないわ」
美容師は墨子の長い髪をくしで解いた。
「今のあなたは、そのせいで意地悪をされているかもしれないわ。そこで、墨子さん。思い切って、流行のモダンヘアにしてみない?」
「モダンヘア。切るってことですか」
「そう。今の私くらいよ」
「奥様のような、髪型ですか」
……確かに。最近は短い人が多いわ。
墨子は美容室代が乏しいのが理由で切っていないだけあり、長くしたいわけではなかった。そこで思い切って、お願いすることにした。
「でも、似合うかな」
「大丈夫! 任せてちょうだい! さて、行くわよ」
ハサミで切られた髪が床に落ちていく。墨子はこれを見ていた。まるで昨日までの弱い自分を、切り捨てているようだった。嫌と言えない自分も嫌だった墨子は、自分を変えたいと思った。
……ああ。気持ちいいな。
初めはこの切る様子を見ていた墨子であるが、心地よい椅子の上でうたた寝をしてしまった。
「……はい! 完成よ。洗うわよ」
「はい、あの、どうなっているんですか」
「お楽しみよ」
こうして髪を整えてもらった墨子は、モダンヘアになっていた。肩までの髪が揺れる、大人の雰囲気である。
「これが。私ですか」
墨子は信じられずまじまじと見てしまった。
「うん! よく似合うわ。まず説明するわね」
美容師は鏡越しで髪を整えながら語った。
「いいこと? 会社に行く時は、この横髪をこんな風にして、少し大人の感じにするの」
「は、はい」
鏡の中の墨子は、確かに大人の感じで神秘的な感じになった。美容師は話を続けた。
「そして。会社から帰ってきた時、横の髪を後ろにかき分ければ、ほらね。明るい雰囲気でしょう」
……うわ、本当だわ。
今度は明るい雰囲気で、いつもの自分が綺麗になった感じである。
横顔の整え方で、顔の印象がずいぶん変わっていた。下ろせば大人風であり、後ろに流せば明るい顔つきに見えた。この変化にドキドキしている墨子のそばに少女が笑みを見せた。
「墨子ちゃん。うちのお母さん、すごいでしょう」
「うん。ありがとうございました」
……ええと、支払いをしないと。
母にお金を持たされた墨子であるが、美容師は要らない!と突っぱねた。
「お代は本当に要らないのよ。それにしても、我ながらうまく変身させられたわ」
今後もモデルになってくれるなら無料と話す美容師に墨子はお礼を言った。
そして美容師と少女にお礼を言った墨子は、婦長の指示通りの婦人服の店に来た。そこでも同じように鏡の前に立たせられた。
「うちの息子と遊んでくれてありがとうね。お礼ができて嬉しいの。ええと。でもね、服はこれがいいわ」
婦人服の奥方はそういうと、流行のブラウスを持ってきた。
「お高いのものではないですか?」
「本当はそうだけど、ちょっとここを見て」
洋服には少しシミがついていた。
「うちではこれでは売り物にならないの。でも、着るとこのシミは見えないと思うの」
勢いに押されて墨子はその服を着た。これをみた奥方は他にも大人風の服を着せた。全てボタンが無くなっていたり、縫製がほつれている訳あり商品だった。
「でも直せば着れるでしょう。ほら、鏡を見てごらんなさい、あなた、立派で強そうに見えるわ」
「え、これが私ですか」
鏡の中の墨子は、モダンヘアで流行のブラウスを着たモダンガールになっていた。特に黒いスカートが大人風に見えていた。
「墨子さん。あなたは黒髪も綺麗で艶やかね……こういう色を『漆黒』と言うのね。肌も白くて可愛い顔立ちね……」
婦人服のマダムは鏡越しで墨子を見つめた。
「でもね。無闇に微笑んだらダメよ。むしろ、むすっとした顔がいいわ、やってごらんなさい」
墨子は言われるまま、笑顔を殺したすまし顔を作った。その顔に夫人は紅をさした。
「……どう? 職業婦人ならば、これくらいかっこいい方がいいわ」
「これが、私」
鏡の中の自分は、いつもとさらに違って大人に見えた。自分で言うのもなんだが、仕事ができる職業婦人に見えた。
戸惑う墨子に、マダムは靴も用意し代金はいらないと固辞した。この気持ちに感謝し墨子は店を出た。
……本当に、そんなに変わるのかしら。
短い髪がスウスウする墨子は、戸惑いながらもモダンスタイルで駅まで歩いた。向こうから男性がやってくるのが見えたため、ぶつからないように墨子は身構えた。
……あれ? 大丈夫だったわ。
いつもなら肩がぶつかる状況である。しかし、この日、墨子は何事もなく帰宅した。帰宅後。母も墨子の変身に驚いたが、母娘はこの路線で明日から仕事に行こうと話し合った。
「どうせ辞めても良いんだもの。はっきり言っておやんなさい」
そして母は背筋を伸ばし、堂々としてみようと語った。
「それでダメなら辞めたらいいよ。そんな会社、こっちからお断りだって言えばいいよ」
「うん。頑張ってみる」
さらに口紅をもらった墨子は勇気が出てきた。こうして翌日、出社した。
「おはようございます」
「え。あ、ああ。安田さんですか? 誰かと思った」
早番の男性社員はモダンガール姿の墨子に驚いた。だが墨子は仕事の方が気になっていた。
「はい。ええと、お掃除をしますね」
毎朝、机の上を雑巾で拭くのは交代制であったが、墨子は来てからそれが撤廃されている。毎朝、掃除をしている墨子は黙々と仕事を始めた。
「おはよう……まあ、安田さん。髪を切ったの?」
「はい」
上沼は驚き顔で見つめた。
「随分変わるものね……それに、その服はどどうしたの」
「知り合いのお店の、売れ残り品です」
「ふ。売れ残りね……まあ、お似合いね」
上沼はジロジロ見つめた。
「黒いスカートか……あなた、確か墨子さんだったものね。これから下の名前で呼んであげるわ」
……うう、でも、確かにそうだし。
他の女子社員もバカにしたが、墨子はグッと堪えた。そんな墨子に男性社員が仕事を持ちかけてきた。
「君。この計算なのだけど、今日中にやってくれないか」
……きた! この人、いつもそう言うのだけど。
今までの墨子は素直に応じていたが、この男性社員はこの書類をすぐに使わないことを墨子は知っていた。墨子は少し勇気を出した。
「すみません。私、課長からも今日中に頼まれている仕事があるのですが」
「そ、そうかい。だっから、それが終わってからでもいいよ」
……やっぱり! 大袈裟に言っているだけなんだわ。
自分の仕事を優先して欲しいから、そんな言い方をするのだと墨子は理解した。墨子は男性社員に確認した。
「では、今週中でもいいですか?」
「あ、ああ、それでいいよ」
彼はそういうと書類を預け自分の席に戻って行った。
……やった! これでいいのね。
墨子は表情には出さなかったが、心の中ではバンザイをしていた。モダンヘアにして洋服にしただけであるが、周囲の反応が違ってきた。
事務員として働きたい墨子は、この地味な鎧を着てもう少し頑張ることにした。
優しい微笑みを隠した天使は、東京の街を歩き出していた。
完
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