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三 天使の傷
「はい。おはようございます」
「お、おはよう……」
……まだびっくりしているわ。先輩も。
二日目。今まで墨子をいじめていた女社員達もこのモダンガールへの変身に驚いていた。中身は今まで通りの墨子であるが、洋装の動きが機敏に見え、さらに仕事をどんどん覚えているせいか、頼もしさが出ている。
そんな墨子に女先輩は意地悪に声をかけた。
「墨子さん。会議室の机が汚れているわよ。拭いてきなさい」
「わかりました……」
係長に頼まれている計算仕事がある。だが、それはあと少しで終わるところであった。
……よし。勇気を出して。
「では。先輩」
「な、何よ」
「私は、この計算を係長に頼まれているのです。私が机に拭いている間、代わりにお願いします」
墨子は書類を二枚だけ先輩に渡した。
「これだけで良いのね」
「はい。お願いします。では掃除をしてきます」
墨子は頭を下げて逃げるように事務所を出た。そして水場でバケツに水を汲み、雑巾を持って会議室にやってきた。胸はドキドキしていたが、爽快だった。
……ん? ここで誰かが食事をしたみたいだわ。そうか。
先ほどの文句を言った女先輩達が食べた後だと墨子は思った。しかし、掃除が好きな墨子は丁寧に掃除を進めていた。すると会議室に係長が血相を変えて入ってきた。
「君! 頼んだ書類はどうしたんだ」
「私、ここの掃除をするように言われたので、先輩に計算を頼みました」
「なんだって? これから会議で使うんだぞ」
係長は慌てて事務所に戻った様子である。墨子は掃除を完璧に終え、そして自分の席に戻ってきた。隣席の上沼は怒っていた。
「あなたね。どう言うつもりなの? 係長の計算は私も手伝ったのよ」
「すみません。会議室の掃除をしろと言われたので」
上沼は墨子の返事も聞かずそっぽを向いて仕事をしていた。それでも墨子はやるべきことはやったので、違う仕事を始めていた。すると会議室で会議を始めたはずの係長が女先輩を呼び出した。
「君! この計算はなんだ、君に頼んだ分は全部間違っているじゃないか」
「そんなはずは」
「もういい! あ、墨子くん。この計算をやり直してくれないか」
係長は本当に困っている様子であったので、墨子は預かった。
「はい。すぐにやります。お届けするので会議室でお待ちください」
「頼むよ。そうだ、上沼君、手が空いているかな。今、お客様がね」
「はい。私で良ければなんでも」
墨子を背にした上沼は嬉々として立ち上がった。そんな彼女に係長は申し訳なさそうに手を合わせた。
「うちの会社の前に、カラスの羽がたくさん落ちているそうなんだ。悪いがお客様が帰る前に、掃除をしてくれないか」
「わ、私がですか」
「ああ。申し訳ない」
係長は忙しそうに会議に戻っていき、墨子は無心になってソロバンを弾いていた。上沼は呆然としていた。
……カラスの羽? なぜ私がこんなことを。
上沼は鬼の顔で墨子を睨んでいたが、墨子は全く眼中にない。やがて課長に即された上沼は玄関から外へ出て行った。その間、墨子は計算を終え会議室へ持っていった。
……ふう。よかった。間に合って。
胸を撫で下ろし墨子は席に戻った。だがやけに静かだった。上沼がカラスの羽の清掃をしたことを聞いていなかった墨子は、自分の仕事に戻っていた。
やがて会議は終わり、客が帰った。係長は商談が無事に済んだと課長に報告し、墨子にも声をかけた。
「助かったよ。今後も頼むね」
「はい」
そして係長は、女先輩に声をかけた。
「それにしても。君の計算はどうなっているんだ。今までの計算も信用できないぞ」
「すみません。慌ててしまって」
計算が間違っていた女先輩は叱られていた。墨子はそっと退席をした。
……さて、帰ろうかな。
自分の仕事は終わっている。墨子は用事を言われないように早々と帰ろうと身支度を済ませた。
「では、時間なので私はこれで」
「え? ちょっと待って墨子さん。この書類をやってから帰りなさいよ」
すると係長がそれを奪った。
「どの書類かな……ああ、これか」
係長は書類を手にし確認した。墨子に頼もうとした女先輩は狼狽えた。係長は書類を彼女に突き返した。
「これは明日届く書類が来てからじゃないと、進めても意味がないものだ。それにこれは君に頼んだものだよ」
「わかりました」
「墨子君は帰りたまえ。ずっと残業だっただろう」
「はい」
……ここは。素直に帰った方が良さそう。
女先輩の冷たい視線が集まったが、墨子は頭を下げ挨拶をした。ドキドキしながら背を向け廊下を歩いた。初めて反抗したが、果たしてどうなのか不安である。
……でも、仕事は済んでいるもの、久しぶりに明るい時間に帰れるわ!
墨子は帰り支度を整え挨拶をすると、嬉しい気持ちで玄関のドアを開けた。
「うわ」
「なんだ君は」
「すみません……」
入ろうした男性に、墨子は頭からぶつかってしまった。
……痛い。背広のボタンに顔が擦ったのね。
墨子は頬を抑えていたが、彼はサッと入っていった。あとから入ってきた男性は墨子の様子を見た。
「君、大丈夫かい」
「はい、あれ」
頬を触った手にはうっすら血が滲んでいた。顔に細く傷が走っている様子だった。
……道理でヒリヒリすると思ったわ。
「あの、もしかして怪我を」
「平気です」
仕事を言いつけられないように墨子は早く帰りたかった。このため頭を下げてそそくさと退社した。栄二は及川を振り返った。
「どうした及川」
「栄二様、今、ぶつかった女子社員は顔に傷ができたようでした」
「顔に? あれはうちの社員か」
栄二は心配したが、現社長とこれから会議であった。時間がなく彼女も帰った。仕方なく会議の前、栄二は同席の男性社員に尋ねた。
「今、玄関で女子社員とぶつかったんだが、、誰だかわかるかな」
「どんな女性ですか」
「髪を短くしたモダンガールだ。真面目な感じの若い娘だが」
「……ああ、それはですね。見習い社員の墨子君でしょうね、早く帰ったので」
……見習いか、だから早く帰ったのか。
正社員ではないので、軽い気持ちで仕事をしているのだと栄二は思った。会社経営をこれから始める彼は、軍人であり家は資産家である。庶民感覚などない彼は墨子のことをいい加減な娘だと思った。
……しかし。若い娘の顔に傷をつけたとなると、後で苦情や損害補償を言ってくるかも知れぬ。
心配なのはそこだった。御曹司の彼は今までも多くの言いがかりをつけられ、苦労をしていた。
「及川、その娘を調べておいてくれ」
「わかりました。ですが」
及川は小声で今回は、無関係を装った方が良いのではないか、語った。
「本人は平気だと言っていたので」
「……まずは出方を見るか」
こうして会議を終えた栄作は、会社経営と軍の仕事の両立に頭がいっぱいだった。
岩谷栄二は、黒髪の長身。逆三角形に見える広い肩幅と長い手足は、彼の身体を高級な背広をより素敵に見せている。黙っていれば端正な顔つきなので、目が合えば女性が頬を染めることがあるが、口を開けば彼の厳しさに退いてしまうであろう。
そんな彼の相棒の及川は、結婚したばかりである。細身で天然癖のある髪は、彼の優しさを示している。栄二とは従兄弟の彼は、お目付役としてそばで支えている。
二人はこれからの会社経営に頭を抱えつつ、夕焼けの東京麻布の街を帰って行った。
◇◇◇
翌日。墨子は頬に猫に引っ掻かれたような傷をつけて出社した。本人は別に気にしていなかった。
「おはようございます、上沼さん」
「おはよう。あなた。その傷どうしたの」
「これですか? 昨日、帰る時に少しぶつかっただけです」
「そう」
……やはり、この娘だったのね。
栄二と係長の話を立ち話をしていた上沼は、忌々しい思いを机の下で密かに握りつぶした。
地味で質素な身なりだった見習い社員だったのに、モダンガールの装いになってから随分、態度も違ってきていると上沼は気がついていた。
……急に強気になって。貧乏娘のくせに。
上沼を始め女子社員たちは取引先の上役の娘である。上沼の家も裕福な家庭であり、彼女自身、仕事よりも金持ちの結婚相手を探しに勤めていた。
……この娘を、お客様の前に出さない方がいいわね。
今までは都合よくこき使っていたが、上沼は墨子の使い方を変えていくことにした。
「まあ、いいわ。今日はその書類を月別に分けてもらうから」
「はい」
墨子の見た目はモダンになったが、仕事は今まで通りこなしていた。
◇◇◇
数日後、栄作は会社にやってきた。ともに事務所にやってきた及川はすぐに墨子を発見した。
「栄作様。いました。この前ぶつかった娘が」
「顔の傷はどうだ」
「……お茶を出させて確認しましょうか。君、そこの君?」
及川が女子社員達に声をかけた。すると全員が反応した。
「私ですか」
「え、嘘」
彼女達は栄二と及川を熱い目で見つめている。しかし、墨子だけは自分のはずがないと思い込んでいた。
……今なら、きっと郵便局が空いているわ。
「上沼さん。私、郵便局に行ってきます」
「あ。そう」
墨子は席を立ち、出かけてしまった。あっという間の出来事に栄二と及川は止める間もなかった。
「いや。君達ではなく。今、出て行ってしまった彼女なんだが」
及川の視線を追い、女子社員が呼びにいったが、墨子は消えていた。
「すみません。郵便局に荷物を出しに行ってしまったようです」
「もういい。後にしろ」
「はい」
二人は墨子に会うのを諦めて現社長の西尾と打ち合わせを始めた。
「自分は来週からここに来るつもりです。だが、軍の用事もあるので毎日は無理ですね」
「わかりました。私も副社長としてお支えしたいと思います」
西尾はそういうと帳面を広げ、今後の予定を告げた。新社長として銀行や、取引先と挨拶回りを行うというものだった。
「はあ、まずそれか」
「岩谷社長であれば、向こうのほうから挨拶に来ますよ。大手の方は、一緒に挨拶に行きましょう」
栄二は隣に座る秘書である及川に予定を組ませた。秘密警察の仕事もしている栄二にとって、仕事は増えるのは痛いことである。小規模な会社であるが、栄二はこれから多忙な毎日を思うと頭が痛くなっていた。
「失礼します、お茶をお持ちしました」
「おお、上沼君。ありがとう、どうぞ岩谷様」
「ああ」
……なんだ、この女子社員は。
お茶を持ってきた女子社員は化粧が濃く、ブラウスの胸元がやけに開いていた。栄二は嫌悪な思いで彼女から目を逸らした。しかし、彼女は立ち去らずお盆を胸に抱えた。
「先日のお菓子、ありがとうございました。みんなで美味しくいただきました」
返事をしたくない栄作は及川の脇を突いた。及川は慌てて応じた。
「それは何よりです」
「そのお茶は、宇治の新茶です、お味はいかがですか?」
栄作は及川の脇をまた肘でついた。
「お、おいしいです。ありがとう、すまないが席を外してくれないか。重要な話をしているんだ」
「まあ、すみませんでした」
上沼は大袈裟に謝ると退席した。西尾は誤魔化すように話題を変えたが、栄二は腕を組み、上沼が持ってきた湯呑みの湯気をじっと見ていた。
……飲む気になれん。ここはあんな女子社員ばかりなのか。
この後の話を簡単にすませた栄二は及川とともに会社を後にした。夕暮れの街は多くの人が行き交っていた。
「全く。あんな女子社員ばかりなのか」
「これから調べますが、取引先の娘を雇っているんでしょうね」
「仕事をしているようには見えないが……ん。あの娘は」
栄二の視線の席には、見覚えのあるモダンガールがいた。
「いいですか? この道をまーっすぐ行くと下り坂になっているんです。そして、下り終わる前に、左手に赤い看板のタバコ屋さんがあるんです」
墨子は大きな風呂敷包みを背負ったおばあさんに、身振り手振りで道案内をしていた。
「あれはうちの社員じゃないですか? 見習いの」
「怪我をさせた娘か……」
栄二と及川はその様子を思わず見ていた。墨子は丁寧に教えている。
「そのタバコ屋さんを左に曲がってそのまま進んで突き当たると、今後は右です。右へ進むとその酒屋さんの看板が見えますよ」
「ええと、じゃあ、赤いタバコ屋さんを、左、そして、右」
「そうです。大丈夫ですよ。わからなければ、タバコ屋さんでもう一度聞いてくださいね」
「ありがとう、ご親切に」
「下り坂の終わる手前ですよ! お気をつけて!」
おばあさんを笑顔で見送った墨子は、ホッとして背を向けた。すると目の前に男性のスーツの胸が見えた。
「ん」
「君は、岩谷の事務員だな」
「……そ、そうですけれど」
顔を上げると、そこには厳しい顔の男性が立っていた。墨子はびびってしまった。
……この娘。やはり。頬に傷があるな。
墨子の顔の傷が気になる栄二はじっと傷を見つめた。墨子は知らない男性に見つめられて恐怖でしかなかった。
「君……この傷は」
「やめてください!」
思わず触れようと手を伸ばしてきた彼を、墨子は突き飛ばした。しかし軍人の彼はびくとせず、返って非力の墨子の方が、道端に倒れてしまった。
「痛たた……」
「大丈夫か?」
「こっちに来ないで」
栄二は彼女に駆け寄ろうとしたが、拒まれて立ちすくんだ。これを見た及川が慌てた。
「君? 大丈夫かい。ああ、足を」
近くに寄った及川が見ると墨子の肘と膝から血が出ていた。しかし、墨子は身構えた。
「……放っておいてください。私に触らないで」
「で、でも」
「血が出ているじゃないか」
及川と栄二が心配している。しかし二人の顔を見るのも怖い墨子は、目をぎゅうとつむって叫んだ。
「来ないで! 人を呼びますよ!」
墨子は立ち上がると逃げるように会社に行ってしまった。二人は呆然としてしまった。
「……栄二様、これは、どうしたら」
「俺にもわからん」
夕暮れの道、二人の男は、逃げ去った墨子の背を見えなくなっても、みていた。
完
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