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四 夢中な君
……はあ、はあ、怖かった。
最近、モダンな服にしてから怖い思いをしていなかった墨子は、体格の良い男性に声を掛けられて恐怖でしかなかった。転んで肘も足も痛いが、汗だくで会社に戻ってきた。
「あ、墨子君。今、君、男性にぶつかって転んだそうだね」
「は、はい」
課長の石丸はたった今、電話があり、その男性から謝罪の言葉があったと教えてくれた。
「君の傷を心配していたよ。後で病院代を出すと言っていたぞ」
「え」
……悪い人じゃなかったのかな。
「あの、その人はどうして私だってわかったのですか」
「すまない。急いでいたようで、それだけ言って切ってしまったんだ」
「そうですか」
動揺していた墨子はひとまず転んだ手足の手当てをしようとした。
……怖かったけれど、会社に出入りしている人なのかもね。
だんだん冷静になってきた墨子は、彼らが何か自分に聞きたいことがあっただけかもしれない、と思った。そして会社の手洗いで傷を洗い、ハンカチで巻いて手当てをし、この後も仕事をして帰宅した。
翌日。墨子は会社に来ていた。擦りむいた腕は包帯をしていたが、長袖のブラウスで隠していた。
……失敗ばかりしていると思われたら、また馬鹿にされるもの。
それよりも墨子は仕事を真剣にやっていた。
「墨子さん。まだ書類できないの」
「もう少しです」
上沼は腕を組み、墨子を見下ろした。
「早くして! 課長が待っているのだから」
「……できました」
「寄越しなさい!」
上沼は奪うと会議室に入って行った。大人のモダンガールの装いをしている墨子は、だんだん意地悪をされないようになっていたが、上沼だけは変わらない。そんなやり取りを他の女子社員も呆れていた。
「いやね。あの人、そこまでして秘書になりたいのね」
「秘書じゃないわよ。玉の輿じゃないの」
「社長夫人だものね。誰でも憧れるわよ」
……そうか。上沼さんは社長の秘書になりたいのね。
墨子は先輩の話を聞いて新社長の岩谷栄二は立派な人物だと知っていた。だが資産家の彼は雲の上の人であり、見習い事務員の自分には、関わりはないと思っていた。
……さて、今度は、これね。
明日、会議室で大きな取引会議がある。墨子はこの資料作りを上沼に頼まれていた。
参加人数分の書類は整ったが、資料を確認する上で下読みをしていた。
……この商品を会社で取り扱うのか、社長に説明して決めるのね。
岩谷合資会社は、商品を仕入れて他社に売る会社である。見習い事務員であるが、上沼に仕事をさせられている墨子は、会社がしようといることが少しずつわかってきた。
「墨子君。資料、ありがとう」
「係長。お尋ねして良いですか」
「何だい?」
最近、子供が産まれた佐藤係長は、資料をトントンと整えながら顔を上げた。
「この資料によると、うちの会社は、色んなお品を仕入れようとしているんですけれど、どうやってこれを選んでいるのですか」
「よくぞ聞いてくれたね」
係長は、ホチキスを取り出したが、墨子に顔をあげた。
「まず。岩谷財閥は、タバコで大儲けした会社なんだけど、明治になってタバコの販売は、政府でやることになっただろう? だから岩谷はタバコを売れなくなってしまった、と言う事はわかるよね」
「はい」
墨子がいる岩谷合資会社は、岩谷系列である。それは墨子も知っていた。
「でも岩谷はその儲けで銀行、料亭やたくさん会社を作ったんだ。そして、僕らがいるこの岩谷合資会社はね。タバコの原料になるタバコの葉を、政府に卸売している会社なんだよ」
「それで農家関係の支払いがあるのですね」
係長はそうだと頷いた。
「今まではうちで製造していたから、タバコの材料の仕入れは得意なんだ。うちはそれを売る会社なんだよ」
しかし、墨子はまだ疑問があった。それは他の商品を仕入れようとしている事である。
「それはね。タバコを届けた後、帰りの船が空になるんだよ。その時、そこに何かを乗せてさらに儲けようと言う事なんだ」
「それで色んな商品を仕入れているのですね」
この事務所では事務的なやり取りだけで、倉庫は港にある。商品は見たことがないため墨子には実感がなかったが、今の話で岩谷合資会社が何をしている会社なのかよくわかった。
「……そこで。この会議で、この資料にある商品を仕入れてみようと会議で相談するんですね」
「そうなんだ。あ? そろそろ時間だね」
時計を見た佐藤係長は、会議の準備を始めた。墨子も会議室の机を並べ、資料を机に置いた。時間前に準備は整った。
「墨子さん。あとは私がやるわ。席に戻りなさい」
「はい」
化粧を直してきた上沼の指示を受けた墨子は、席に戻った。請求書の計算仕事が待っていた。
……ようし! 行きますよ。
たくさんあるが集中してやる仕事が好きだった墨子は、夢中になってソロバンを弾いていた。
そんな時、栄二が及川と会社に来ていた。正社員達は作業中であったが、立ち上がり頭を下げた。これを栄二は手を挙げて制した。だが、墨子だけ知らずにソロバンを弾いていた。
……ん? この数字は、6なの? 0なの? ……ええと。
「おい、君」
……10? そうか、隣の1と0がくっついて6に見えたんだ! ふふふ。
「聞いているのか」
「へ」
墨子の手元には男性の大きな手がどんと現れた。墨子はびっくりして顔を見上げた。
「はい?……あ。あの」
頬が当たるほど、彼はそこにいた。
「火事で逃げ遅れるぞ」
「え」
栄二は自分に全く気が付かない墨子を、呆れた顔で見下ろした。
「そんなに夢中になるとは……君は炎に包まれるまで気が付かないんじゃないか」
栄二の冗談を聞いた他の社員は笑った。墨子は居た堪れない気持ちで立ち上がった。
「すみませんでした」
「もういい」
……顔に引っ掻き傷があるな、やはり、俺の背広のボタンだろう。
さらに腕にうっすら巻いている包帯を確認した栄二は、会議室に入っていった。墨子はその広い背中を見ていた。隣の席の女先輩は墨子に声をかけた。
「墨子さん。社長が入ってきた時、みんな立ち上がって挨拶していたのよ」
「そうだったんですか」
……やってしまったわ。
新しい社長に失礼な態度をとってしまった墨子は、心の中では大雨が降っていたが、ひとまず目を伏せて席につき、やがてソロバンで計算を再開していた。お叱りを受けると思うが、その前に仕事を終えておこうとしていた。
「墨子さん! ちょっと来なさい」
……来た! これはクビかもしれないわ。
内心はびくびくであったが、墨子は冷静な顔を作り上沼の呼び出しに応じた。上沼は会議のお茶を墨子に出すように言った。
「私がですか」
「ご指名なのよ。まあ。先ほどのことで叱責を受けるのが間違いないでしょうね」
……ううう。
「わかりました……」
「私も一緒に出すから。さあ、行くわよ」
上沼は張り切って会議室をノックして、入っていった。内心は青ざめている墨子は、参加者の顔を見ないように入っていった。
「では、次に船便についての報告です。近年、蒸気船の運搬よりも鉄道が普及して参りました……」
……ええと、私は係長達のお茶を出したいから。
課長の説明をみんなが聞いている会議室。墨子は社内の顔見知りの社員にお茶を出したかった。うまいことに上沼は上座にいた栄二にお茶を出そうとしているので、墨子は上沼の動きに合わせ、忍び足でお盆を持っていた。
「鉄道の駅に関しましては、現在、渋谷駅の開発が決定しています。我が社も今後は、船の輸送から、鉄道に移行をさせていくわけですが、その際の問題点として……」
その時、上沼がくるっと振り返った。そしてこっちにこい、と目で訴えている。墨子はなんだろうとお盆を持って上沼の隣に来た。
栄二の背後の立つ上沼は、暗黙で『栄二社長にお茶を出せ』と墨子に指示した。
……私ですか? でも、上沼さんが。
……いいから! あなたが出しなさい。
……いいのですか? でも。
栄二のお茶は、高級茶碗であり上沼のお盆にある。墨子が持つお盆は社員用のお茶である。墨子が栄二にお茶を出すには、上沼のお盆から栄二の茶碗を取り出さないとならない。
……私のお盆から、この社長のお茶だけ取ってよ。
……こ、これですね。
墨子が手を伸ばした。すると墨子は自分の持っているお盆のことがおそろかになった。
……だ、だめです。ちょっと待ってください。
……何をしているのよ! これを取るだけでしょ!
……はい、これですね……
再挑戦の墨子は緊張してしまい、異常なほど震えてしまった。茶托ごと持とうとすると、カチャカチャと恥ずかしいほど音が出てしまった。
……ど、ど。どうしよう
……早くして!
……で、でも。
「だめだ?……ははっは」
「ふふふ、はははは!」
「え」
「こ、これは」
墨子と上沼が驚く中、最初に笑い出したのは栄二だった。続いて笑った及川を皮切りに、会議室は爆笑になった。背後の出来事を全て知っていた栄二は涙を拭った。
「説明を中断してすまない。君たち。いいからお茶を出してくれ。これでは会議ができない」
「ふふふ! 私が手伝います」
まだ笑っている及川は、立ち上がり上沼のお盆を持ち、墨子のお盆を持たせた。墨子は及川からお盆を取り、無事にお茶を配ることができた。
墨子が緊張しながら栄作と及川にお茶を出した。及川は笑いながら聞こえるように説明した。
「皆さん。すみませんでした。新人社員の勉強になるかと思って、それで彼女にお茶をお願いをしたのですが、こんな大事になってしまって」
「そうでしたか。墨子くん。勉強になったかね」
「はい」
石丸の言葉で和んだ空気になった。こうして墨子はお茶出しを終えた。
……終わった。疲れた。
閉めた扉の音でホッとしたのも束の間。上沼は墨子を睨んだ。
「良い気になるんじゃないわよ!」
「はい」
「後の片付けもやっておきなさいよ」
「はい」
上沼は怒って化粧室に行ってしまった。廊下に残った墨子はため息をついた。
……はあ、疲れた。
緊張と、訳のわからない仕事に振り回されてしまったが、墨子はまた仕事を再開した。
こうして一日が終わった。
会議が済んだ栄二達は、その後、社長室で仕事をしてから会社を後にした。
「やはり顔の傷がありましたね。ええと、墨子さん、ですね」
「ああ。猫に薄く引っ掻かれた程度だがな」
墨子にお茶を出した時に、顔の傷を確認した及川と栄二であるが、やはり謝ることにした。
……見習いでいい加減だと思ったが。
ソロバンで夢中になって計算をしている様子を見た栄作は、墨子が仕事を真面目にしていることを知り、彼女を悪く思ってしまったことを反省した。
「街では驚かせてしまったし。ここは、やはり金か?」
「栄二様。ちょっと待ってください」
新婚の及川は、真顔の栄二を制した。
「そこまでの傷ではありませんし、それにお金というのもやりすぎかと思います。ここは、そうですね……ハンカチとかで」
「ハンカチ、女物か?」
「そうですね」
……なるほど。そういうもの、か。
今までの栄二は軍人として男社会で激しく戦って育ってきた。そのため女心というものが、わかっていなかった。資産家の彼には女性が言い寄ってくるが、仕事ひとすじでここまでやってきている。今は既婚者の及川の助言を素直に聞くことにした。
「だが、どんなものを選べばいいか、わからんぞ」
「では妻に頼みますよ。流行とかあるでしょうから」
だが、栄二がじっと考えた。
……あの娘。モダンな感じだし、オシャレなのが良いのかな。
「まだ早いな。よし。百貨店に行くぞ」
「え? 栄二様が行くんのですか」
「ああ。俺のせいで怪我をしたんだ。お詫びの品は自分で見て決めたい。ほら、行くぞ」
そんな栄二は墨子の驚き顔を思い出していた。
……ふふふ、あのびっくりした顔。
冷静にソロバンを弾く娘の夢中な横顔は、そばで見ると初々しく愛らしかった。
……モダンなものが好きなのか? いや。案外、愛らしいものの方が良いかもしれない。レースのハンカチ、それとも刺繍入りがいいかな……
お礼に品を真剣に考えながら栄二は歩いた。年下の見習い事務員の墨子のことばかり考えている栄二は、笑みをこぼしながらガス灯が揺れる東京を歩いていた。
完
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