五 夏の風

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五 夏の風

 ……よし。これでいいわ。 「墨子、行く時間よ」 「わかってます、さて、と」  墨子は家の鏡で身支度を整えた。肩までの髪をとかし横髪で顔を包むようにセットした。色は元々白いので紅をそっと引き、本日のブラウスは白。  流行のデザインで高級品であるが、裾が破れているので婦人店の奥方が無料でくれたものである。墨子はこれを自分で縫って着ている。黒いスカートの姿は墨子の細いウエストを強調している。その後ろ姿を母はため息で見ていた。 「本当に、お前じゃないみたいね」 「だって。虐められないためだもの」 「わかっているけれど、あまりにも大人に見えるのだから」  心配顔の母に墨子はにっこり笑った。 「ふふ。中身は私のままよ。じゃあ、行ってきます!」  墨子は元気よく玄関を出た。古いそまつな長屋が並ぶ道を、彼女は街に向かって歩いていた。近所の老婆は紫陽花に水をあげながら墨子を見て目を見開いた。 「墨子ちゃんかい? まあ。誰かと思ったよ」 「これは仕事の格好なの。行ってきます」  他にも近所の人達に朝の挨拶をしながら墨子は街へ歩いていた。だんだん仕事へ向かう人並みになっていく。  ……でも、本当に効果抜群だわ。  以前なら、すれ違う時にぶつかっていた墨子であるが、この大人の格好をして以来、被害が一切なくなった。歩きながら墨子は、人は外見を気にしていることがよくわかってきた。  ……私は今まで、あまり気にしていなかったな。  母は医療従事者であり、どんな人にも同様に接するように墨子に教えていたので、墨子もそう思って暮らしていた。しかし仕事社会ではそうではない、とわかってきた。仕事街へ進む無言で進む人たちを墨子は横目で見ていた。  ……あの女の人はたぶん百貨店の人ね。髪型がそんな感じだし……私の横の男の人は、大きなカバンを持っている……革の鞄って高いのかな……  そんなことを思いながら、墨子は進んだ。横断歩道を進みようやく岩谷合資会社が入っているビルにやってきた。墨子の前にいた背広の男性も一緒に入るところである。 「……どうぞ。お先に」 「ありがとうございます」    彼は戸を開け、墨子を先に入れてくれた。こんなことは初めてだった。 ……私の格好が違うだけで、こんなに待遇が違うんだ。  感動というよりも驚きで墨子は進んだ。今朝もこうして墨子の一日が始まった。 「おはようございます」 「おはよう」  いつものように墨子は清掃をしていた。すると後から佐藤係長がやってきた。 「昨日はお疲れさん。あーあ、今日も仕事か」  そんな佐藤に墨子は掃除をしながら尋ねた。 「あの。昨日は結局、仕入れる品が決まったんですか」 「いいや。あれはだめだったな」  佐藤係長は肩こりがあるのか、肩を回した。 「今度の社長は慎重だから。口でいくら説明してもだめだったね」 「鉛筆でしたよね……」  昨日の佐藤係長の提案は、鉛筆を販売したい、というものだった。資料を読んでいた墨子鉛筆は難しいと思っていた。 「安く仕入れができるし、地方で売れると思ったんだけどな」 「……でもまた今度がありますよ。資料のお手伝いをしますので」 「ありがとう! よーし、頑張るか」  佐藤の机には赤ん坊と愛妻の写真が飾ってある。墨子は密かの微笑みながら朝の支度を進めていた。 「墨子さん。これって、どういうこと?」 「何のことでしょうか」  墨子を廊下に呼び出した上沼は、花瓶に生けてある花を指した。 「惚けないで。せっかく昨日私が生けたのに。ぐちゃぐちゃじゃないの」  ……お水を交換しただけなのに。  確かに花を少しは動かしてしまったが、大きく直してはいない。そんな墨子に上沼は立て続けに言い放った。 「どうしてくれるのよ。こんな花を飾るなんて、会社の恥じゃない、謝ってよ」 「すみません」 「謝って済む問題じゃないわ!」  墨子はドキドキだったが、冷静に考えた。  ……もしかして。手直しをしたと思って怒っているかな。  彼女のプライドを傷つけたのかもしれないと、墨子は気を付けて語った。 「私はお水を交換しただけです」 「え」  墨子は上沼をじっと見つめた。 「花を直したわけではありません。どうか誤解しないで下さい」 「く、口答えを」 「おーい。墨子くん。ちょっと手伝ってくれないか」  ここで石丸の声が入った。廊下にいた二人はびくとした。 「この書類を直して欲しいんだ。頼むよ!」 「……はい」  上沼が睨みつけていたが、墨子は課長の机に進んだ。    ……助かった。  ホッとしながら墨子は書類を受け取った。石丸の指示は簡単な内容だった。 「それが済んだら、新聞を買ってきてくれないか。知りたい記事があるんだ」 「はい」  お金を預かった墨子は、会社を出た。日差し眩しい通り行く人たちは足早で、自分の目的のために向かっているようだった。墨子は商店街まで進みタバコ屋で新聞を買った。  すると、キョロキョロと道を探しながら歩いている女性を発見した。手には花を持っていた。大人しい感じの女性は、ちょっと前までの自分に見えた墨子は勇気を出した。  ……誰かに聞けばいいって、わかっているけれど、申し訳ない気分になるし、そもそも誰に聞けば良いのか、わからないのよね。  墨子も見かけは整えているが、中身は気弱な性格である。足早に進む会社員の波に埋もれている花屋の女性を墨子は放って置けなかった。 「あの。会社をお探しですか」 「は、はい。そうなんですけれど……」  今にも泣き出しそうだった花屋の女性は、墨子にビクッとした。墨子は大丈夫と笑みを見せた。 「一緒に探しましょうか? 住所はここなのですか?」 「はい。この松葉ビルっていうところで、住所はこの辺りのはずなんですよ」 「松葉ビルは、最近名前が変わったのですよ。ええと、この新しい看板のビルのはずです」  墨子はそのビルを教えた。花屋の娘はありがとうと微笑んでいった。墨子も笑顔で別れて会社に戻っていた。 「……見ろ、及川」 「ん。ああ、墨子さんでしたっけ」  タクシーで会社にやってきた栄二は、道路の反対側から今の様子を見ていた。及川が金を支払っている間も彼は墨子を見ていた。  ……親切なんだな。それに会社にいる時よりも生き生きしているな。  やがて彼女はにこやかに軽い足取りで会社に戻ってきた。青山通りにある岩谷合資会社は、複合ビルの1階に入っている。その大きなビルの玄関の前にいた栄二を見てハッとした。なぜか彼は腕を組み墨子を見つめていた。  ……社長だわ。よし、ええと、顔を。  墨子は笑顔を封印し、済まし顔に整えた。 「こんにちは……」  そう言って頭をペコンと下げて墨子は入ろうとした。 「待て」 「は、はい?」  栄二は墨子を呼び止めた。墨子は恐る恐る振り向いた。彼は広いビルの玄関内に入ってきた。 「実は先日、君と連れ違った時、顔に傷を負わせてしまったようだ」 「顔……ああ、あれはもう治りましたよ」 「どれ」  栄二は墨子の顔をじっと見た。墨子は恥ずかしくて目を瞑った。  ……うう。恥ずかしい。  墨子の耳には彼の低い声がした。 「ここか? うっすらまだ残っているな。申し訳ない」 「気にしないでください。あの、私はこれで」 「待てぃ」 「はい!」  彼は周囲を確認し、誰も気にしていないのを確認し、ポケットから包まれた物を取り出した。 「謝罪のつもりだ、受け取ってくれ」 「そんな? 受け取れません」 「ただのハンカチだ。気にするな」 「でも」  ここで及川が被せるようにやってきた。 「墨子さん。気にせずどうかお使いください、さて、会社に行きましょう」 「そうだな、行くぞ」 「はい」  墨子は二人を先に行かせ、後ろをついていった。ビルの大広間の奥に進むと岩谷が入っている事務所になる。  ……広い背中……歩くの早いな。 「ところで。君はなぜ、下の名前で呼ばれているんだ?」 「え? 私ですか」  前を進みながら聞いてきた栄二の問いに墨子は、そのまま答えた。 「私が墨子という名前で、こんな黒いスカートばかり履いているせいでしょうね」 「なるほど……では俺もそう呼ばせてもらうぞ」 「ど、どうぞ。あ、今、戸を開けますね」  墨子は栄二のために戸を開けようと先を急いだ。 ……重い? よいしょ! 「あれ?」  いつの間にか栄二がドアを抑えていた。 「先に入れ」ほら」 「はい……」  スススと墨子は入った。事務所の中は栄二の来社を見て一斉に、社員が立ち上がって挨拶をした。墨子も端に立ち、頭を下げた。彼はそのまま事務所の奥の社長室に入って行った。  ……びっくりした。あ? 新聞を渡すんだった。  この後、課長に新聞を届けた墨子は仕事を済ませて退社した。カバンにはもらった贈り物があった墨子は、嬉しいよりも緊張だった  そして帰宅後、母と一緒に正座をし、畳の上に置いた贈り物を見つめた。 「お母さんが開けて」 「何を言うの。お前がもらったんだかたら、自分で開けなさい」 「……では、いくわよ。いざ!」  恐る恐る包装紙を開いた墨子はパッと紙箱を開けた。 「まあ。百貨店のハンカチね」 「白いレースに刺繍が入っている……綺麗」  母娘はこのハンカチをもらうことに悩んだが、気持ちとして受け取ることにした。 「でもお母さん、お返しをどうしよう」 「そうね。高価な品だし。もらいっぱなしは良くないわね」  真面目な母娘は悩んだが、母が勤務先の友人に相談するということにした。ひとまず明日、お礼を言うことにした墨子は、寝る部屋でハンカチを広げた。  ……ちょっとした傷なのに、こんな私にも配慮してくれるなんて。立派な社長さんなんだな。  粗末な自宅の和室の布団の上に墨子は寝転んだ。  見習いとして始まった会社事務員の仕事は、仕事以外の嫌なことばかりで止めようと思っていた。しかし、今は違い、仕事をさせてもらえるようになっていた。  ……頑張ろう。明日も  お気に入りの朝顔の浴衣を着た墨子は、栄二がくれたハンカチを机に置き明日を夢見て眠りについた。 完
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