六 彼の苦悩

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六 彼の苦悩

「及川、まだいないとダメか」 「もう少し我慢してください。あ! どうも」  東京帝国ホテルの夜。栄二は夜会に参加していた。春まで地方で軍の任務についていた彼は、この夏から会社経営者である。社長となった栄ニは、及川の言う通りに挨拶をして回っていたが、もう帰りたかった。 「社長、東京不動産の佐々木様です。こちらは岩谷の」 「岩谷栄二と申します」 「おお、君が次男さんか。お父さんから聞いているよ」  黒いタキシードの彼はどんなことをしても目立っていた。本人は気にしていないが淡麗な顔と鍛え抜かれた身体は、特に長い足が素晴らしく格好が良い。  こうして栄二は経済界や企業経営者と挨拶を交わした。さすがに岩谷財閥の次男である彼は、その軍人という異質さもありほとんどの人が彼を知っていた。さらに及川は岩谷系列の会社で勤務していたので顔が広く、栄二をあっという間に紹介していた。 「はあ、俺は少し休む」 「仕方ないですね。自分が代わりにあと少しだけ挨拶をしてきます」  頼りになる年下の従兄弟に任せた栄二は、そっとワインを飲んでいた。 「あの……ご一緒してよろしいですか」 「……どうぞ」  女性は笑みを浮かべて栄二の隣に立った。 「岩谷様ですよね? 私の母と岩谷様のお母様がお知り合いのようで」 「そうですか……おっと? 失礼。呼ばれてしまったので」  栄二はそう嘘を付き席を離れた。バルコニーに出て星空を見上げた。夜の空気は彼を和ませてくれた。  女性たちの香水の匂いや、濃い化粧、そして煌びやかなドレス姿は、彼にとって嫌悪でしかなかった。  ……星が綺麗だ……そうだ、あのハンカチはどうだっただろうな。  怪我をさせてしまった墨子にお詫びのつもりでハンカチを買った彼は、彼女の反応が気がかりだった。軍人の彼としては、頑張っている後輩を応援している気分であったはずだが、今は墨子のことばかり考えていた。  ……しかし、面白い娘だ。  墨子は社外ではにこやかであるが、社内に入るとスイッチが入ったようにキリッとしている。栄二はこれが面白かった。 「やはりここか」 「兄さん……来ていたのか」 「ああ、お前が来ていると聞いたのでな」  岩谷財閥の継承者の兄、岩谷常道(いわたにつねみち)は隣に立った。 「では、俺はこれで」 「まあ待て。会社の方はどうなんだ」 「知っているのに、聞く必要はないだろう」  夜風が二人の間に吹いた。涼しい風は二人の冷めた関係を語っていた。  岩谷の父は長男第一主義。何もせずに金が入る会社を兄に継がせている。そんな兄は苦労知らずで育ち、金に困ったことなどない人間である。  そんな環境の中、今回、栄二が相続させられた会社は、岩谷の会社の中で最もお荷物の会社である。兄は栄二が苦労をすることを知っていながら、微笑んだ。 「そんなに怒るなよ。そんなに困っているならいくらでも融資をしてやるから」 「必要ない、話はもうないな」 「栄二! 母さんが心配しているぞ」  呼び止めた兄に、栄作はため息混じりで応じた。 「今度……実家に顔を出すよ」 「わかった」 「では、俺は帰る」  最低限の仕事を終えた栄二は、自宅へと帰ってきた。 「ずいぶん、飲んだようですな」 「放っておいてくれ」 「はいはい」  叔父から相続した屋敷。一緒に住んでいる爺やに悪態をついた彼は、風呂を済ませ、自室の布団に寝転んだ。  ……はあ、明日も仕事か。  六月の夜。どこか蒸し暑かった。栄二は大の字になって灯りを消した。目を瞑った。  ……ふふ……ふふふ。  思い出すのは、会議の時、墨子が緊張しながらお茶を出している時の様子だった。一日忙しかったが、眠りにつく時の彼は、笑っていた。  翌朝、彼は出社した。 「おはようございます」 「おはよう」  ……どこにいる? いないな。  社員が全員立ち上がる事務所に彼女はいなかった。 「おはようございます。今日もよろしくおねがいします」 「あ、ああ」  こうして栄二の一日が始まった。この日は多くの取引先が、挨拶にやってきた。栄二は誰が誰なのかわからぬまま、名刺交換を続けていた。 「及川、まだあるのか」 「午前中は、あと一組です」 「あの……お茶をお持ちしました」  やって来たのは、上沼だった。栄二は咳払いをして尋ねた。 「君。朝から見習い社員がいないようだが、休みか?」 「見習い……ああ、彼女はですね」  上沼は嬉しそうに語った。 「本日、このビルの屋上の掃除をすることになったんです。ビルに入っている会社は、誰か一人手伝いを出さないといけないので、彼女が行っています」 「屋上? この暑い日にか」 「……本人が出るというので」  ……梅雨入りしているし、今日は特に蒸すのに大丈夫なのか。  墨子のことが心配であったが、この後、栄二には信じられないほど来客が来た。それが終わると昼だった。 「栄二様、お昼の弁当をこれから」 「ちょっと屋上に行ってくる」 「え? 」  及川の声を聞かずに彼は階段を駆け上がった。薄暗い階段を駆け上がっていくと、扉の向こうに青空が見えた。彼はそこに飛び込んだ。 「あ。もう、終わりましたよ」 「そ、そうですか」  青空の下、東京の街が一望できる屋上は爽やかな空間だった。だが掃除は終わったようで、各会社から手伝いに来た男性たちは清々しく額の汗を拭っていた。 「……あ、社長」 「君……暑かっただろう」 「ええ、でも終わりましたから」  墨子も汗を拭っていた。栄二は他の参加者を見渡した。  ……全員。男性じゃないか。なぜ、彼女を。  力仕事だったと思った栄二は一瞬、歯痒い思いで怒りの拳を握った。そん栄二を知らず、他の会社の男性が墨子に礼を言った。 「しかし。君がいて助かったよ。俺たちだけでは、気がつかなかったよ」 「そんなことありませんよ」 「どういうことだ」  墨子は屋上の看板を指し、しっかり固定されていなかったと語った。 「風の強い日に看板が揺れていたので、もしかしてって思っただけです」 「いやいや。さすが岩谷さんの事務員さんだ」  栄二は看板は針金で止めて修理を終えたという話を聞いた。そして解散になり、栄二は流れで墨子と一緒に階段を降りてきた。墨子は汗だくなので栄二は気の毒になった。 「おい。今日はもう帰っていいぞ」 「そうなると、お手当が減るので困ります」 「でも」 「着替えてくるので大丈夫ですよ、あの社長」 「なんだ」  ……俺に文句を言ってもしょうがないぞ。  屋上に行けと言ったのは栄二ではない。思わず身構えた彼に階段の踊り場にいた墨子はまっすぐ告げた。 「昨日は、大層なものを頂戴し、ありがとうございました」 「え、ああ、あれか」  墨子はお辞儀をしハンカチのお礼を言った。 「はい。母にちゃんとお礼を言うように、言われました」 「そ、そうか」 「では、着替えて仕事をします」  墨子はそういうと会社の廊下に消えた。栄二は一瞬、立ち止まったが、社長室に戻った。戻って来た及川は、栄ニを心配していた。 「遅いでの呼びに行こうとしていたんですよ。はい。これお昼の弁当です」 「ああ。食べたら、すぐに仕事をするぞ」 「え? ど、どうしたんですか」  栄二は、墨子が男性に混じって屋上で掃除をしていたと明かした。 「見習いなのに、あんなに頑張っているんだ。俺もやれることをやるよ」 「……しかし。うちの男性社員だって、言われれば行ったと思うんですけどね」  そんな及川の声を聞きながら栄二はさっさと食べた。 「食べたぞ! 仕事だ」 「え? 自分はまだですけれど」 「だったら、書類を読んでいるから、お前はゆっくり食え」  まだ食べている及川を背にして栄二は書類を読んだ。  ……俺は逃げていたのかもしれない。  昨夜の兄の態度に腹を立てていた栄二は、屋上にいた墨子の頑張りを知り、恥ずかしかった。  親の期待は全て兄であり、自分は継げないと思いひたすら運動に打ち込み軍人となった。しかし急に会社をやれと言われて、戸惑いと、苛立ちを覚えていた。栄二は親がわがままだと思っていたが、それは自分の方だと気がついた。  ……あいつは、何事も必死にやっているんだ。俺もやるべきことをやらねば。  「及川、これは全部読んだぞ。そして、これに署名をすればいいんだな? まず片っ端から判子を押すぞ」 「……待ってください。ああ? もう! じゃあ、そこにある去年の売り上げでも読んでいてください」 「わかった。暗記する」 「えええ?」  梅雨の合間の晴れの午後。彼は力全てをこの会社に注ぐ決意をした。栄二がいる岩谷合資会社は、暑かった。  完
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