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16 管理責任
変化が訪れたのは、ある雨の日のことだった。
外の景色など見えないので、豪雨の到来をマリーは木の板を打ち付ける雨音を聞いて知った。午前中は穏やかな時間が流れていたハワード男爵家だが、昼時を過ぎてにわかに騒がしい。
こんな天気の中だけど誰か客人でも来たのか、廊下を駆け回る足音がバタバタと部屋の中まで響いていた。
(まぁ、私が出る幕はないわよね……)
書庫から持って来てもらった本の続きを読もうと、マリーはソファに深く腰掛ける。胸まで垂れた淡い栗色の毛もそろそろ切りたいけれど、ハワード男爵家の人々は忙しそうで言い出すタイミングを逃している。
このところ、マイセンが茶会や晩餐会に妻であるマリーを伴って出向くことはない。親切なメイドのゾフィーが言うには「妻は病床に伏せている」ということになっているそうだ。それは図らずとも遠からずだろう。
食欲はないことが当たり前で、日に当たらないためか元気も出ない。マリーは自分が、心の病気になってしまったのかもしれないと思うこともあった。
「マリー様……!大変です!」
同じ文章を何度も行ったり来たりしていた目を本から上げると、部屋の入り口にゾフィーが立っている。若いメイドが切羽詰まった顔をしているのを見て、マリーは何か非常実態がハワード男爵家を襲っていることを悟った。
義父と義母の戦いが再発したのだろうか?
それともジュリアが妊娠でもした?
ゾフィーの後をついて、そろそろと廊下を移動していくと、客間の扉が中途半端に開け放たれていた。明かりは漏れているが、人の声は聞こえない。
先に立っていたゾフィーが立ち止まって、片手を挙げてマリーに中へ入るように促した。
「………っ!」
部屋の中には、マイセン、ハワード男爵夫妻がソファに座り、その後ろで怯えた顔のジュリアが立ち尽くしている。
机を挟んで反対側には久方ぶりに見る領主ネイトと、見慣れない黒い制服を着た男が二人座っていた。来客三人の目はどこまでも冷たく、それがこの部屋の緊迫した空気を作り出しているのは一目瞭然だ。
(いったいどうしたの……?)
事情が飲み込めずにマイセンの方を見たが、顔を上げない彼はマリーの視線に気付かない。いつもはうるさいぐらい元気な義母がこんなに青い顔をしているのは、初めて目にする光景だった。
どうしたものかと立ち尽くすマリーの名前を呼んだのは客人であるネイトで、彼は手招きしてマリーにそばへと来るように言った。
「ハワード小男爵、どうしますか?同じ話をもう一度奥様に話して聞かせても?」
「………っ誤解だ!」
「金の絡む犯罪に誤解も何もないですよ。僕は貴方に領内の税金の管理をお任せしていた。しかし、蓋を開けてみれば随分と金額が少ない。みんな脚でも生えて何処かへ逃げ出したみたいだ」
そう言って乾いた声で笑うとネイトはマリーを見る。
マリーは驚いて、並んで座るマイセンたちに目を遣った。
「マイセン様……?」
「こ…これは妻の指図なんだ!彼女が僕に色々と強請って、金がなければ徴収した税金に手を付ければ良いと…!」
「私はそのようなこと、」
「マリーは卑しい田舎の出なの!家の中ではそれはもう大きな顔で色々と指図をして、私たちは肩身が狭い思いを日々していたのよ!」
「お義母様、何を……!」
根も葉もない話に加勢する義母にビックリしてマリーが叫んだ時、パンパンッと誰かが手を叩く音がした。
一同は揃って音のした方を振り返る。
その先にはハワード男爵が座っていた。
「もう良いじゃないか、マイセン」
「………パパ?」
「ドリモアは少しお前に甘過ぎた。この家は私の家だが、実質はお前の天下だった。私の目が届くうちは良いだろうと思っていたが……こんなことになっていたとは」
ハワード男爵はふうっと長い溜め息を吐く。
マリーは義母がドリモアという名前であったことを思い出したと同時に、記憶の中で眠っていた義父の声がこんなに弱々しかったことになんとも言えない気持ちになった。
「愛人の件もそうだ。お前はマリーを屋敷に閉じ込めて彼女の自由を奪った。気持ちが移ろいゆくことを咎めるつもりはないが、ケジメは付けるべきだっただろう」
そうして義父はマリーの方を向いて「すまなかった」と頭を下げた。その隣でマイセンと義母が信じられないといった顔をするのが見える。
「小男爵の話では、奥様の悪知恵に乗ったというお話ですが……男爵の話ではそうは思えませんね」
それに、と言ってネイトは入り口に立つ若いメイドの方を気に掛ける素振りを見せる。マリーはゾフィーがこくりと小さく頷くのを見た。
「メイドにも話を伺いましたが、奥様はそんなことに手を貸せる状態ではなかったようです」
「しかし、僕は……!」
「今日は王都から徴税を担当する管理官の方に来ていただいています。小男爵の持つ帳簿を彼らに調べてもらった上で、今後の対応を考えることにします」
「まっ、待ってください!ハワードはこれからどうなるのでしょう……!?まさか、領主様は私たちの爵位を落とすつもりでいらっしゃいますか……!?」
慌てふためくハワード男爵夫人をネイトは見る。
マリーが出会った時の優しい表情はそこに無かった。
「今の時点では何とも言えません。当事者である小男爵はおおよその予測はついていると思いますが……」
ぶるぶると唇を振るわせながら下を向くマイセンを一瞬見遣って、ネイトは立ち上がった。二人の管理官たちに頭を下げて隣に立つマリーを見下ろす。もう先ほどまでの冷たい目ではなかった。
「直接関わっていない君には、事情が分かるまでしばらく他の場所で待機してもらうことになる。何か最後に伝えておきたいことはあるか?」
「………伝えておきたいこと?」
「マリー!君の指示だと言ってくれ!僕は君を愛しているんだ!爵位を奪われたら君だって困るだろう!?」
マイセンは苦渋に歪んだ顔をマリーに向ける。
三年と少し、夫として寄り添った男の顔を見つめ、小さく息を吐くとマリーは口を開いた。心の中に沈澱していた澱みにさざなみが立っているのを感じながら。
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