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17 愛ではない
「………マイセン様、」
溢れた声は思っていたより小さい。
恐れさえ抱いていた夫が、すっかり萎縮した顔でこちらを見ている。縋るように、祈るように、マイセンがマリーを見上げている。
「あぁっ、マリー!愛しているんだ!もう一度やり直そうじゃないか。僕らの未来のために罪を認めてくれ!」
「そうやって……私一人に罪を被せて、この屋敷から追い出すおつもりですか?」
「そういうわけじゃ、」
「何か理由があれば離縁を申し立てても誰も貴方を責めないでしょうからね。心優しい男爵令息に付け入った泥棒猫を成敗したと、皆は貴方を褒めるでしょう」
「そ…そうは言ってないだろう……!」
慌てふためくマイセンを前に、口を閉じる。
指先から、つま先から、感情が駆け上がってくる。
今まで上手く言葉に出来なかったこと。
目を瞑って都合良く見ないようにしていたこと。そうやって逃げて逃げて、自分はこれで良いのだと思い込もうとした。人生なんてこの程度のもの。より良い状態を求めるのは強欲なのだと。
「マイセン様……貴方の言う愛とは何ですか?」
「は?」
「どうして私を愛していると言うのですか?何故貴方は私をあの田舎町から連れ出したのですか?」
「それはっ!僕が君に一目惚れしたからだ!健気に花を売る君の姿に胸を打たれて、僕がもっと良い環境で君を生活させてやろうと……」
「知っていましたか?私は……白い色が苦手です」
「………?」
「汚れないか気になって食事に集中出来ないし、外を歩く時だっていつも以上に気に掛ける必要があるので」
「なんで今更そんな話を、」
マイセンは呆れた顔で鼻を鳴らした。
その後ろではジュリアも訳が分からない顔をしている。
「マイセン様……私たちは、お互いがお互いを見ていませんでした。私は貴方が呼ぶ自分の名前が嫌いでした。貴方はいつも私に色々な話をしてくれましたが、一度だって私の話を聞いてくれたことがありましたか?」
「………君はずっと家に居るだけなんだから、僕に話して聞かせることなど無いだろう」
「やはり…何も理解していないのですね」
それもそうかもしれない。
マリーはマイセンが自分の話を聞く姿勢を持っていないことは分かっていた。だけど、日々自分のことで手一杯の夫に些細な話をすることは気が引けたし、不機嫌そうに断られる可能性を思うと勇気が出なかった。
好きな色、好きな食べ物。苦手なことに楽しいと思える時間。そんな当たり前のことを共有しないままに、二人は夫婦として過ごしていた。
マイセンの話を聞くことはいつの日にかマリーにとって苦痛に変わって、身体を重ねることも接吻すらも、妻であるが故の義務でしかなくなっていた。
「貴方は私のことを愛しているのですか?」
「……っ、あぁ!もちろんだ!だからどうか今まで通りに一緒に過ごそう。僕たちは家族なんだから…!」
「マイセン様……会話は一方通行では成り立ちません。そしてきっと夫婦の愛も、同じことなのです」
「………何を言いたいんだ?どうしたんだ、マリー。今日の君はおかしいぞ…!?変に屁理屈を並べて、」
「マイセン様が私に求めるのは、ただ貴方に黙って従う素直な人間。そこに自我は不要、あってはならない」
「そんなことは……」
「貴方が憤っていたら黙って話を聞き、身体を求められたらどんなに眠くても差し出す。与えられた服を着て、必要とあれば涙を呑んでサンドバッグとなる」
誰も何も言わなかった。
言葉を切って、もはや誰に対するものか分からないけれどマリーは少しだけ笑顔を作ってみる。切れた唇が引っ張られてまた鋭い痛みを感じた。
「マイセン様……それはきっと愛ではありません」
「あぁ、マリー。君は間違ってる…!」
「自分の気持ちは私が一番よく分かっています。ハワード男爵家から逃げ出した時、懲罰として一ヶ月塔に閉じ込められていた間……空気が美味しかったのです」
「なに?」
「貴方と居ると…ハワード男爵家の一員として生活していると、私は上手く息が出来ません」
マリーは顔を上げて夫の方を見遣る。
ゆっくりと瞬きをして、深く頭を下げた。
「ごめんなさい。私は貴方の望む妻にはなれません」
「………っな…!!」
「だから貴方の罪を庇うことも出来ない。法は私にも何かしらの刑を与えるかもしれませんが、時が来たら離縁状をお送りいたします」
「マリー……!」
「今までお世話になりました。私は自由を選びます」
絶望を浮かべるマイセンにもう一度頭を下げて、マリーはネイトの方を振り返る。
言うべきことはもうすべて伝えた。
ネイトはマリーの背中を優しく叩いて、ゾフィーが立つ入り口の方を指差す。この部屋から去っても良いということなのだろう。
マリーは一歩ずつ慎重に歩みを進める。
扉を抜けた瞬間、身体はふわっと軽くなったように思えた。
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